歴史街道 » #徳川家康の記事一覧

#徳川家康の記事一覧

「銘菓・玉椿」を喜代姫の輿入れで用意した、姫路藩の名家老・寸翁の思い

兼田由紀夫(フリー編集者)

「銘菓・玉椿」を喜代姫の輿入れで用意した、姫路藩の名家老・寸翁の思い

兼田由紀夫(フリー編集者)

写真:姫路城。日本で最初に世界遺産に登録され、昨年30周年を迎えた あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート...

本多忠勝は武辺だけではない...三重県・桑名市にみる「家康を支えた街づくり」

歴史街道編集部

本多忠勝は武辺だけではない...三重県・桑名市にみる「家康を支えた街づくり」

歴史街道編集部

写真:桑名城の江戸時代の石垣 三重県の桑名市は、関ケ原合戦後、本多忠勝が徳川家康から与えられた地である。そしてこの地では、「天下無双」として知られた忠勝の、別の顔を見ることができるという。しかも桑名は、家康と...

なぜ徳川家康は“織田家の菩提寺”を移転させた? 名古屋に残る「関ケ原の影響」

歴史街道編集部

なぜ徳川家康は“織田家の菩提寺”を移転させた? 名古屋に残る「関ケ原の影響」

歴史街道編集部

写真:名古屋城の天守と本丸御殿 関ケ原合戦で徳川の天下が定まったように見えるが、戦いは終わったわけではなかった。それを強く感じ取れる場所こそ、名古屋だ。豊臣政権の創始者・秀吉、徳川家康、そして加藤清正。この三...

曽根昌世、岡部正綱、依田信蕃、下条頼安~「天正壬午の乱」で徳川家康の窮地を救った人々

和田裕弘(戦国史研究家)

曽根昌世、岡部正綱、依田信蕃、下条頼安~「天正壬午の乱」で徳川家康の窮地を救った人々

和田裕弘(戦国史研究家)

徳川家康の生涯において重大な局面だった天正壬午の乱。選択を誤れば 破滅の危機にあったこの状況で、最善の成果を挙げられたのは、徳川家臣だけでなく、 多くの人々の助力があってこそだった。ここでは、天正壬午の乱で...

茶屋四郎次郎、穴山梅雪、長谷川秀一、本多忠勝 ~「伊賀越え」で徳川家康の窮地を救った人々

和田裕弘(戦国史研究家)

茶屋四郎次郎、穴山梅雪、長谷川秀一、本多忠勝 ~「伊賀越え」で徳川家康の窮地を救った人々

和田裕弘(戦国史研究家)

御斎峠展望台より伊賀盆地を望む 徳川家康の生涯において重大な局面だった「伊賀越え」。選択を誤れば 破滅の危機にあったこの状況で、最善の成果を挙げられたのは、徳川家臣だけでなく、 多くの人々の助力があってこ...

家康の運命を別けた街道とは? 京都に残る「神君伊賀越え」伝説

歴史街道編集部

家康の運命を別けた街道とは? 京都に残る「神君伊賀越え」伝説

歴史街道編集部

写真:甘南備山展望台からの眺め 徳川家康と穴山梅雪が運命を分けた地、家康一行が立ち寄った城跡や寺……。「お茶の京都」と称される京都山城地域の京田辺市・井手町・城陽市・精華町・宇治田原町には、...

なぜ、徳川家の重臣・石川数正は寝返ったのか? チャンスを迎えた秀吉の企み

河合敦(歴史研究家/多摩大学客員教授)

なぜ、徳川家の重臣・石川数正は寝返ったのか? チャンスを迎えた秀吉の企み

河合敦(歴史研究家/多摩大学客員教授)

小牧・長久手の戦いの後、旧武田領内の動揺をおさめるのに手を焼いていた家康。真田昌幸の裏切りと、それを助ける上杉景勝の登場によって、家康は上田城を諦める羽目に。 そして家康にさらなる試練が訪れる。徳川一...

小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由

河合敦(歴史研究家/多摩大学客員教授)

小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由

河合敦(歴史研究家/多摩大学客員教授)

本能寺の変、羽柴秀吉は山崎合戦、清須会議、賤ヶ岳の戦いを経て、天下人として振る舞い始める。そんな秀吉に対して、織田信長の次男・信雄が不満を募らせ、徳川家康を頼るようになる。やがて両陣営は決戦へと至るが、は...

“スギ”のお陰で命拾い? 徳川家康ゆかりの地・岡崎で辿る「天下統一までの道のり」

歴史街道編集部

“スギ”のお陰で命拾い? 徳川家康ゆかりの地・岡崎で辿る「天下統一までの道のり」

歴史街道編集部

龍城神社(右)と岡崎城 徳川家康を語るうえで欠かせない場所──といえば、やはり生誕の地である愛知県岡崎市だろう。市内にはゆかりの地が数多くあり、「ありし日の家康」に触れられるのだ。歴史街道編集部が現地に伝...

「甲斐」が家康の天下取りを支えた? 戦国最強・武田軍と徳川の深い関係

歴史街道編集部

「甲斐」が家康の天下取りを支えた? 戦国最強・武田軍と徳川の深い関係

歴史街道編集部

右左口宿の観音堂から 甲府盆地を望む 徳川家康が甲斐平定のために布陣した地、家康や徳川家と縁のある寺、徳川家と戦国最強・武田軍団とのつながりを感じさせる場所...。山梨県といえば武田家だが、家康に注目して訪...

家康の次男・結城秀康~「ギギ」と呼ばれた幼少期、不遇を乗り越え期待に応えたの男の生涯

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

家康の次男・結城秀康~「ギギ」と呼ばれた幼少期、不遇を乗り越え期待に応えたの男の生涯

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

結城秀康像(福井県福井市、県庁舎前広場) 大河ドラマ「どうする家康」で、松井玲奈さん演じるお万の方が話題となっているが、その子・結城秀康はどのような人物だったのだろうか。幼少期は父・家康が対面しようとせ...

上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派”専門家の見解

渡邊大門(歴史学者)

上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派”専門家の見解

渡邊大門(歴史学者)

上杉景勝(左)と直江兼続(右)像 徳川家康が会津征伐に乗り出すきっかけになったとされている「直江状」。これは上杉景勝の家老・直江兼続が家康側に宛てた書簡であるが、研究者の間ではいまも「直江状」は偽文書な...

北条氏康が志した「関東独立国家」...領民の支持を獲得できた民主政治とは?

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

北条氏康が志した「関東独立国家」...領民の支持を獲得できた民主政治とは?

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

小田原城 相模の戦国大名・北条氏康は「関東独立国家」の樹立を目指して、領国を統治するための組織づくり、そして撫民政策に注力した。北条氏の政権運営は民主的と捉えられるものだったという。小和田哲男氏が、氏康...

“戦国大名6割の墓”がある聖地も? 信長に秀吉、真田親子ゆかりの地・和歌山の名所

歴史街道編集部

“戦国大名6割の墓”がある聖地も? 信長に秀吉、真田親子ゆかりの地・和歌山の名所

歴史街道編集部

和歌山城(写真:松村シナ、以下同) 信長、秀吉、家康の三傑だけでなく、真田信繁など、和歌山には戦国武将ゆかりの地が数多く残っている。戦国時代から江戸時代初期にかけて、彼らは和歌山とどのような関わりを持っていた...

信長・秀吉・家康が恐れた紀伊国...一大勢力「雑賀衆」の消滅とその後

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

信長・秀吉・家康が恐れた紀伊国...一大勢力「雑賀衆」の消滅とその後

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

火縄銃 日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスが「百姓たちの共和国」と表した紀伊。戦国時代には、信長、秀吉、家康の三傑に抗い、江戸時代には、御三家のひとつとなり、二人の将軍まで輩出した。その数奇な歴史をもた...

武田氏と内通していた? 徳川家康が嫡男・信康に切腹を命じた真相

河合敦(歴史研究家)

武田氏と内通していた? 徳川家康が嫡男・信康に切腹を命じた真相

河合敦(歴史研究家)

徳川家康は、織田信長に命じられ、妻・築山殿と息子・信康を処刑している。一体なぜ、信長はこのような命令を出したのか。歴史研究家の河合敦氏が、徳川家の一大事件について解説する。 ※本稿は、河合敦著『徳川家...

「桶狭間の戦い」が徳川家康の運命を分けた? 今川義元の討死のその後

河合敦(歴史研究家)

「桶狭間の戦い」が徳川家康の運命を分けた? 今川義元の討死のその後

河合敦(歴史研究家)

桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市) 徳川家康は、幼年より今川氏の人質として過ごしていた。そんな家康が、桶狭間合戦において今川義元が討ち死にした後、いかにして織田軍の攻勢から逃れ、大名として独立するに至っ...

関ヶ原合戦の前日、すでに毛利輝元は徳川家康と和睦していた!?

渡邊大門(歴史学者)

関ヶ原合戦の前日、すでに毛利輝元は徳川家康と和睦していた!?

渡邊大門(歴史学者)

毛利輝元像 激戦の末、裏切りで勝敗が決したとされる関ヶ原合戦は虚構だった? 一次史料をもとに最新研究が明らかにした天下分け目の真実とは? 小説やドラマなどで度々描かれ、よく知られている。が、それらの...

徳川幕府はなぜ、260年も続いたのか~家康の巧妙な分断政策

童門冬二(作家)

徳川幕府はなぜ、260年も続いたのか~家康の巧妙な分断政策

童門冬二(作家)

優れた大名が数多く存在した戦国時代において、なぜ家康は天下人たりえたのか。また、徳川幕府はなぜ260年も続いたのか。 現代的視座から多角的な比較・分析を行い、家康が行なった巧妙な分断政策、世界に例を見な...

徳川家康は大坂の陣で討ち死にしていた!?~堺・南宗寺にある墓の謎

楠戸義昭(歴史作家)

徳川家康は大坂の陣で討ち死にしていた!?~堺・南宗寺にある墓の謎

楠戸義昭(歴史作家)

  本物の家康は、すでに死んでいた!? 謎といえる家康の墓が、大阪府堺市の南宗寺にある。 家康は元和2年(1616)4月17日に75歳で駿府城で死んだが、実はこの時に死んだのは影武者で、本物の家康...

家康も望まなかった「大坂冬の陣」、勃発の真相を探る

渡邊大門(歴史学者)

家康も望まなかった「大坂冬の陣」、勃発の真相を探る

渡邊大門(歴史学者)

「腹に一物持った狸親父の徳川家康」「息子の秀頼を溺愛する淀殿」「運に恵まれない豊臣方牢人衆」…古来、そんなステレオタイプのイメージで語られてきた大坂の陣は、信頼できる史料に基づいたものではない。むし...

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