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武田信玄の西上作戦 その目的、選択と誤算

乃至政彦(歴史家)

武田信玄

甲斐の虎起つ! 元亀3年(1572)9月、武田信玄は三河、遠江に侵攻した。世にいう西上作戦である。しかし、この作戦は上洛を目的としたものだったのか。その時、織田信長、上杉謙信はどう行動したのか。歴史家の乃至政彦氏が解説する。

※本稿は、乃至政彦著『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

武田軍、西へ

西上作戦と呼ばれる武田信玄終局の一大作戦について、そのシナリオを追ってみよう。信玄はどういう計画で、何を目指し、最期に何を遺したのか。

これには諸説あるがもっとも一般的な解釈は、信玄は信長を打倒して上洛を果たし、天下を取るつもりだったというものである。少なくともこういう物語が歴史愛好家たちの解釈のベースにあることは確かである。では、事実はどうだろうか。

根源的な疑問として、戦国大名なる者は天下取りを本気で考えていなかったのではないかとする見方がある。イメージ先行の解釈を相対化する主張として聞くべき声であるだろう。さらにそこへ信玄を過大評価するべきではないという声が合わさり、その狙いは単なる徳川領への侵略に過ぎなかったという主張が好まれている。

信玄の戦略が最初から最後まで首尾一貫して動いていると見るならば、こうした議論に行き着くのも当然だが、あえてこれをもう少し複雑化してみよう。まずは信玄の動きから見直してみる。

徳川領に攻め込む前、信玄は朝倉義景や浅井長政から、信長に圧迫を加えるよう要請されていて、信玄自身は「信長の盟友である家康を攻める予定だ」と返答していた。義景と長政は信玄の返答に、胸を撫で下ろす思いがしただろう。その一方で信玄は、自分が北陸に派遣した家臣たちに、「上杉謙信と対戦するため、飛驒の豪族の調略を進めさせており、近々自ら出馬する予定である」と伝えていた。

だが、信玄は結局のところ、家康を狙って南進を開始した。

信玄は、謙信、または織田・徳川連合と対決する予定を各所に伝えており、結局は後者を選んだ。これをどう見るべきだろうか。
 

武田信玄の選択肢

信玄には越後の謙信を攻めるか、美濃の信長を攻めるかの選択肢があった。対外的には両方の姿勢を見せていた。だが、信玄自身は三河の徳川領と、美濃東部の織田領に派兵した。

これは眼前にある選択肢の中で、もっともリスクの高い道を選んだように見える。

もし謙信を攻めていたらどうか。朝倉と浅井は不満に思うに違いないが、抗議されることはあるまい。武田家にとってまだ表面上、友好関係を保っている信長より、長年の宿敵である謙信の方が脅威である。謙信が家康と組んで武田家の邪魔をしている以上、越後侵攻には一定の説得力がある。それに遠交近攻というが、織田も徳川も遠国の越後が攻められたところで、本気では嚙みついてこないだろう。越後侵攻は対外的に手堅いのである。

ただ、現実問題として謙信は武田の対応に慣れていて地盤も手堅く、こちらへの防衛体制が整っている。つまり、これまで通りの長期戦が続くだけ──と信玄は見ただろう。このルートに突き進んだら、可も不可もなく地味な戦略を進むことになる。

もし信長と正面対決したらどうか。謙信と家康は、全力で武田軍を妨害しようと信濃を挟撃するだろう。そうなったら武田軍は間違いなく苦境に陥ることになる。

ただし謙信は、本願寺派の加賀一向一揆勢と、関東の北条軍が動けば足止め可能である。信玄自身が美濃へ出馬すれば、朝倉・浅井軍は嬉々として織田領に乱入してくれるだろう。不確定要素は大きいものの、信長から異見書を叩きつけられ、不満を溜め込む将軍がこちらに味方してくれる事態も起こし得る。

だが信玄の本命は──三河であった。三河北東部の山家三方衆その他が、家康を裏切って武田家に味方することを約束してきた。信玄が朝倉や浅井に「遠州表」への軍事侵攻を打ち明けたのは、山家三方衆の懐柔に成功してからのことであった。

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