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武田信玄の西上作戦 その目的、選択と誤算

乃至政彦(歴史家)

 

信玄の見立て

信玄は、次の筋書きを思い描いていたであろう。

まず全方位に圧迫を仕掛ける。何者も圧迫を加えてやれば、先々の選択を強制的に絞らせることができる。武田軍が家康を攻めれば、玉突き的に次のことが必ず起きる。

家康が、信長と謙信に武田攻めを要請する。信長は、将軍・義昭に仲介を要請する。

将軍からは「あなたは信長と仲良くしていたはずで、信長と本願寺との仲介もお願いしていたのに、どうして」と問う幕臣が派遣される。ここまでは簡単に予想できよう。

ここで信玄は、将軍の使者に信長と家康への不満を煽る。本願寺対策で苦慮する幕臣たちの鬱屈を刺激すれば、こちらに転がり込む勝算があった。事実として、幕府は信長を切り捨てる決断を下した。

上位者が権臣を裏切る例は当時どこにでもあった。

例えば、東国の公方、管領、守護が、属下にある有力城主から離反して敵方につくことが何度もあったように、傀儡同様に扱われる上位者が、専横を振るう権臣を見限って、反権臣連合に味方するのも珍しいことではなかった。信玄は今回これを狙えると見たのであり、そして諸事、思い通りに状況をコントロールしていくのであった。

 

信玄の口車に乗せられた幕臣

将軍・足利義昭が、三河に在陣する信玄のもとへ、幕臣・上野秀政を派遣した。案の定、秀政は信玄に、織田・徳川連合との講和を呼びかけてきた。すると信玄は逆に信長と家康の無道を論難して、秀政に翻意を迫った。武田方の主張には、強い説得力があっただろう。

この直後、秀政は親織田派の筆頭である幕臣・細川藤孝と、信長との関係について意見対立している(『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』)。また、秀政はその後も義昭と行動をともにして、反織田活動に従事している。おそらくこの時、秀政は信玄の口車に乗せられたのだ。余談ながら近世の記録でも、義昭は信玄に「信長は元来むごき人」なので今のうちに滅ぼすべきだと誘われて裏切りを決断したと伝えられている(『老人雑話』)。

こうして義昭は反織田派となる決意を固めたのである。

裏付けとなるのは、当時のフロイス書簡である。ここで秀政と信長の対立について、「美濃(織田信長)より公方(足利義昭)様に十五ヶ条(=前年九月の異見一七箇条書)を送り厳しく之を責めたり。信長はウヘノ(上野秀政)ドノを以て此事の主たる責任者と認めたり」と言及している(イエズス会年報・1573年4月20日付フロイス書簡)。義昭を反織田連合に鞍替えさせたのは、信玄と交渉した秀政だった。信玄は、信長の使命感に支えられてきた幕府を信長から切り離し、自分の味方にしてしまったのだ。

信玄はさらにもう一歩先の副次効果を狙おうとしていた。謙信の翻意である。

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