戦国武将イメージの「通説」は江戸時代以降に作られたものが多い。鈴木眞哉著『「まさか!」の戦国武将 人気・不人気の意外な真相』(PHP文庫)では、名将たちの意外な評価を解き明かしているが、ここでは本書より、武田信玄と上杉謙信について、お互いがどのように評価していたかについて紹介したい。
戦国の群雄のなかで、もっとも強かったと目されている武田信玄と上杉謙信。では、当人たちは、互いに相手をどう評価していたか。
その前にそれぞれの戦績を見ておきたい。
と言っても、数値的にそれをつかまえるのはなかなか難しいが、信玄の場合で言うと、彼がかかわったとされる戦いは、100くらいある。それらのなかには、伝説的なものもあるし、本人が手を下していないようなものもあるが、一応、この数値をベースに考えてみると、たしかに信玄の勝ちと見てよいものが63パーセントくらいあり、明らかに負けと見てよさそうなものは14パーセントくらいだから、勝率はかなりよい。残りは、戦ったものの勝負がつかなかったとか、そもそもはかばかしい戦闘がなかったとかいうもので、川中島で5度戦われたという謙信との対決もそれである。
中身的には、野戦などよりも、当時の習いとして城郭がらみのものがきわめて多い。城を取った、取られた、攻められた城の救援に出た、攻めている城の救援に出てきた敵と戦ったといったものが、70パーセント以上に及んでいる。
謙信については、信玄以上に把握が難しいが、一応信用できそうな年譜などから拾ってみると、52回くらいの戦闘にかかわっている。伝説的なものもあること、直接参加していないものもあること、野戦よりも城郭がらみの戦いが多いことなどは、信玄の場合とまったく同じである。
ともかく、それによってみると、勝ったと見られるもの52パーセントに対して、明らかに負けとしてよいものは1回か2回だから、たしかに強かったと言える。肝心の信玄との川中島での直接対決5回は、戦ったが勝負がつかなかったもの1回を除き、残りはめざましいこともなく終わった。どっちも強かったから、容易に仕掛けられなかったのだろう。
その謙信は、永禄4年(1561)、大軍を集めて北条氏康の本拠小田原城(神奈川県小田原市)を攻めた。しかし、守りが固く、囲みを解かざるをえなかった。その限りでは、勝敗なしということだが、引き揚げる途中で小荷駄(輜重部隊)を襲われて、思わぬ不覚をとった。このとき謙信は、太田三楽斎(資正)に向かって、自分がつねづね、甲斐の武田信玄におよばないと思うのは、こういうところだと言ったという。
謙信に言わせれば、信玄は、相手を弱敵と見ても、なお弓矢を大事に取り、このような軽はずみなことはしない男だというのである。「松隣夜話」という史料にある話で、いかにももっともに聞こえるが、この史料は小田原攻めの年次も間違えているし、太田資正も、この時点では、まだ三楽斎と号してはいないから、どこまでほんとうかはわからない。
もう少し確かな史料としては、天正2年(1574)春、木戸伊豆守らに宛てた書状(「謙信公御書」)がある。謙信は、このとき関東に出兵し、利根川を舟で渡ろうとしたが、北条勢の攻撃を受けて失敗した。家臣の佐藤筑前という者に、敵の攻撃を受けたらまずいのではないかと尋ねたところ、敵が攻撃してくる地形ではありませんと答えたので、決行したところ失敗したのである。それで「佐藤ばかものニ候」と書中で罵っている。
そう言いながら、よくわからない地形では、武田信玄、北条氏康だって失敗しただろうから、自分の失敗も無理はないと弁明している。すでに死んでしまっている二人を引き合いに出して言い訳しているのであるが、この二人の軍事能力には、謙信もある程度の尊敬の念をもっていたことはうかがえる。
一方、信玄が謙信をどう見ていたかについては、臨終に際して、謙信は「義人」であって、その点では天下に類を見ない人であるから、彼に頼れば大丈夫だと息子の勝頼に言い残したというよく知られた話がある。どこまで事実であったのかは確かめようがない。
もっと確かなものとしては、天正4年(1576)10月15日付で、甲州の教賀という僧から越後上条の長福寺の空陀という僧に宛てた書状(「歴代古案」)が上杉家に残っている。そのなかで教賀は、上杉謙信は太刀つまり軍事においては「日本無双之名大将」だと、信玄入道がたびたび自分に語っていたと言っている。
史料としての性質には問題はないと思われるし、教賀としても、あえて偽りを言う必要もなさそうな内容である。信玄自身がこのような談話をしたことに虚構はないだろう。とすれば、信玄は、少なくとも軍事的能力に関するかぎり、謙信を日本無双の名将であるとして高く評価していたのである。