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「秦王政を討て!」のちの始皇帝を襲った、刺客・荊軻の恐るべき暗殺計画

島崎晋(歴史作家)

荊軻塔
↑河北省易県の荊軻塔(写真:筆者、以下同)

大ヒット映画『キングダム 大将軍の帰還』を観て、秦王政、のちの始皇帝に興味を抱いたという方も多いだろう。彼の時代を知るための史料といえば『史記』があるが、その中には、秦王政が間一髪で危機を脱した暗殺劇が描かれている。果たしてその顛末とは――。

※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

起死回生の策

刺客塔(河北省易県)
↑荊軻塔(河北省易県)

秦王の十七年、韓王の安(あん)を虜(とりこ)とし、その領土をことごとく併合した。この年、華陽太后が没した。

秦王の十九年、趙王を捕虜とし、邯鄲(かんたん)を攻略した。趙の公子、嘉が代(だい)に逃れ、自立して代王となった。政は邯鄲に赴き、かつて母の家と仇怨のあった諸々の者を捕らえて、みな生き埋めにした。この年、政の母太后が没した。

秦王の二十年、燕の太子の丹が秦軍の侵攻を恐れて、刺客を差し向けた。刺客の名を荊軻(けいか)という。

丹は人質として秦にいたことがある。そのときの扱いが悪かったこともあり、秦をひどく憎んでいた。それだけに、秦軍の矛先が東へ伸びるにともない、人一倍強く、起死回生の策を模索した。守り役の鞠武(きくぶ)に相談したところ、鞠武は田光(でんこう)という処士を紹介した。そこで、辞を低くして田光に相談したところ、田光が紹介したのが、荊軻だった。

荊軻は衛の生まれ。読書と撃剣を好み、それをもって衛の元君に仕えようとしたが、採用されなかった。

衛の国土が秦軍に蹂躙されると、荊軻は諸国流浪の旅にでた。楡次(ゆじ)に立ち寄ったとき、蓋聶(こうじょう)という男と剣について議論をたたかわせたところ、蓋聶が怒って荊軻を睨みつけた。すると荊軻は黙ってその場をあとにした。「もう一度呼び出しては」という者がいたが、蓋聶は言った。

「わしはあいつを睨みつけてやった。試しに行ってみろ。やつはきっと立ち去っているはずだ」

そこで宿に人をやって捜させたところ、荊軻はすでに楡次を立ち去ったあとだった。

つぎに荊軻は邯鄲にやってきた。魯勾践(ろこうせん)という者とすごろく博打をやっていたところ、盤の道争いでひと悶着おこった。魯勾践が怒ってどなりつけると、荊軻は黙ってその場をあとにし、二度と戻らなかった。

荊軻は燕の都に来てから、犬の解体人や筑(琴に似た楽器)の名手、高漸離(こうぜんり)と親交を結んだ。毎日のようにいっしょに酒を飲み、興が高まってくると、町の真ん中で、高漸離が筑をうちならし、荊軻がそれに合わせてうたった。さらに興が高まると、いっしょに泣きだし、そばに人がいようがいまいがおかまいなしだった。

しかし、荊軻は一日中飲んだくれていたわけではなく、しらふのときは沈着冷静で、賢人、豪傑、名望家と交わりを結ぶことにつとめた。そのなかでも田光は特別な存在であり、田光は荊軻が非凡な人間であることを見抜いていた。

燕の下都城址(河北省易県)
↑燕の下都城址(河北省易県)

 

地図に隠された匕首(あいくち)

始皇帝、刺客の荊軻が見送られた地↑刺客の荊軻が太子の丹や親友の高漸離らに見送られた易水ほとりの地

荊軻に託された使命は秦王政の暗殺である。政を油断させ、近づくために2つの手土産が用意された。ひとつは燕の督亢(とくこう)という土地の地図、もう一つは秦から亡命してきた樊於期(はんおき)の首である。樊於期は荊軻から事情を説明されると、快く首を提供してくれた。

武器には、徐夫人の匕首に毒を塗った、かすり傷だけでも相手を殺すことができる、鋭利な刃物が用意された。残る問題は、相方だったが、荊軻が希望する人物は遠方にいて、到着が遅れていた。荊軻はあくまで待ちたかったが、丹がせかせるので、やむなく丹が推薦した秦舞陽(しんぶよう)という男を連れていくことにした。少年時代から何人も殺めてきたという殺人の常習者だった。

秦の王宮に入ると、荊軻は樊於期の首をいれた箱を、秦舞陽は地図を納めた箱を捧げ、政の前へと進み出た。玉座の近くまでくると、秦舞陽は顔色が変わり、全身がぶるぶると震えて歩けなくなってしまった。居並ぶ臣下が怪しんだ。荊軻は咄嗟の機転を働かせ、ふりむいて秦舞陽のさまを笑い、前に出て謝罪した。

「この者は北方の辺境出身の田舎者、大王様に拝謁するのははじめてなので、緊張のあまり震えております。どうか寛大なお心で、使者の役目を果たさせてください」

そこで秦王政は、荊軻に、「地図をこれへもて」と命じた。荊軻が巻物状になった地図をさしだす。政がそれを広げていくと、最後に匕首があらわれた。荊軻は左手で政の袖をつかみ、右手で匕首を握って、「えいっ」と突き刺す。

だが、わずかに届かない。政が驚いて身を引き、立ち上がると、袖が千切れた。政は剣を抜こうとしたが、慌てていたのと、剣が長すぎるのとで、抜くことができない。政は鞘を持ったまま、柱のあいだを逃げまわった。

群臣はみな動顚して、どうしていいかわからないでいた。秦の法では、臣下が御殿の上にあがるときは寸鉄の武器も持ってはならない。郎中たちは武器を持ってはいるが、王からお召しがないかぎり、上にあがることはできない決まりだった。事態は急を告げ、外にいる兵士たちを呼んでいる場合ではない。ゆえに荊軻はひたすら政を追いかけつづけた。

殿上の臣下のなかには、素手で殴りかかる者がいたが、荊軻の敵ではなかった。荊軻はいまにも政に追いつきそうになった。そのとき侍医の夏無且(かむしょ)が薬の袋を荊軻めがけて投げつけた。荊軻が一瞬それに気をとられた隙に、政は距離をあける。ここで側近の一人が呼び掛けた。

「王様、剣を背負いなさいませ」

政は剣を背中にまわし、ようやく鞘から抜くと、荊軻に一刀を浴びせ、左太ももを切り裂いた。動きの不自由になった荊軻は、匕首をぐっと引き、狙いを定めて投げつけた。しかし、匕首は政にはあたらず、銅の柱に突き刺さった。政はなおも荊軻に斬りつけ、8カ所の傷を負わせた。荊軻は失敗に終わったと悟り、柱によりかかり、笑いながら言った。

「事がならなかったのは、おまえを生きたまま捕らえて約束を引き出し、太子様に報告しようとしたからだ」

政は左右の者に命じて、荊軻にとどめを刺させた。

この事件は政をいたく怒らせた。政は前線の軍を増強して、燕の国を火のように攻め立てさせた。そのため10カ月後には、燕の都は陥落した。燕の王は遼東(りょうよう)へ逃れ、そこから丹の首を送って謝罪したが、政は許さず、攻撃の手を緩めなかった。

 

著者紹介

島崎晋(しまざき・すすむ)

歴史作家

立教大学文学部史学科卒。東洋史学専攻。卒業後、旅行代理店勤務を経て、出版社で歴史雑誌の編集に携わり、現在は歴史作家として活動中。著書に『覇権の歴史を見れば、世界がわかる─争奪と興亡の2000年史』『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』などがある。

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