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なぜ呂不韋は相国に登りつめた? 人質だった子楚を見出した「商人の才覚」

2023年05月26日 公開
2023年05月26日 更新

島崎晋(歴史作家)

秦趙会盟台
秦の昭王と趙の恵文王が和議を結んだ秦趙会盟台(河南省三門峡市澠池県)

呂不韋は類まれなる頭脳を武器に、秦の相国にまで昇りつめた傑物だ。元々は韓の商人だった男が、いかにしてその地位を得たのか。先見の明により拓かれた栄達の道、そして失脚に至った過程を歴史作家の島崎晋氏が解説する。

※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より内容を一部抜粋・編集したものです。

 

呂不韋の先見の明

秦王政について語るには、まず呂不韋について触れておかなければならない。呂不韋は陽翟(ようてき)の大商人だった。

ときに秦では昭王の40年に太子が死去し、2年後、次男の安国君が新たな太子に立てられた。安国君には20人以上の男子がいた。しかし、もっとも寵愛があつく、側室から正室に繰り上げされた華陽夫人には子がなかった。

安国君の男子のなかほどに子楚(しそ)という者がいた。母親の夏姫(かき)があまり愛されなかったことから、子楚は人質として趙に預けられていた。秦がたびたび趙に攻撃をしかけるものだから、趙では子楚を冷遇していた。秦からの仕送りも少なかったことから、子楚は苦しい生活を余儀なくされた。

呂不韋は趙の都の邯鄲(かんたん)に出かけ、子楚の存在を知ると、思わず、「奇貨おくべし」とつぶやいた。それからすぐに目通りして、「わたしはあなた様の門を大きくしてさしあげられます」と言った。子楚が、からかわれているものと思い、笑って応じると、呂不韋は重ねて言った。

「あなた様はまだご存じではないですが、わたしの門はあなた様のおかげで大きくなるのです」

子楚は呂不韋の含意を悟って、彼を奥座敷へ案内した。呂不韋が言うのはこういうことである。昭王はもう老齢で、安国君を太子に立てたものの、安国君がもっとも寵愛する華陽夫人には子がない。

一方、このままでは子楚が安国君の世嗣ぎに選ばれる可能性もなきに等しく、ついては、華陽夫人に取り入って、彼女の義理の子にしてもらえばよい。そうすれば、彼女の口利きで世嗣ぎに選ばれるにちがいない、というのである。

呂不韋は工作に必要な経費はいくらでも提供するという。子楚は喜んで、呂不韋の計画に乗ることにした。

呂不韋はまず子楚に500金を与えて、交際範囲を広めさせ、自分は500金で珍奇な品々を買いそろえ、西へ向かった。秦へ着くと、華陽夫人の姉を通じて、それらを彼女に献上した。そのとき、子楚を褒めあげるのを忘れなかった。

華陽夫人が非常に喜んでいたと知ると、呂不韋は華陽夫人の姉を通じて説得をはじめた。その際、特に強調したのが、「容色をもって人に仕える者は、容色が衰えれば愛も緩む」ということだった。そうやって危機感を煽ったうえで、呂不韋はつぎのようなことを述べた。

公子のなかで誰かを選び、義理の母子の関係を結んでおいたほうがよい。そうすれば、王が亡くなってからも、その子が次なる王になって自分を尊び、尽くしてくれる。そして、公子のなかで、子楚ほどすぐれた者はいない。子楚は華陽夫人を実の母のように慕っていると。

華陽夫人はなるほどと思い、安国君に向かい、子楚のことを褒めあげたうえ、泣きながらかきくどいた。どうか子楚を世嗣ぎにしてくださいと。すると安国君は承諾して、子楚に手厚い贈り物をするとともに、呂不韋に子楚の守り役になるよう要請した。これより、子楚の名は諸侯のあいだで広く知られるようになった。

【故事成語】奇貨おくべし
呂不韋が子楚に目をつけたときに言った言葉に由来。「この値打ち物は押さえておかねばならない」という意味から転じて、「珍しい財物は蓄えておいて、高い値段になるのを待つのが良い」といった意味あいで使われる。

 

政の出生の秘密

呂不韋は邯鄲の女のなかでも容姿と舞踊にすぐれた者を家に入れていたが、そのなかの一人が呂不韋の子をはらんだ。ときあたかも、子楚が彼女を見染め、もらいうけたいと言ってきた。呂不韋は腹が立ったが、ここで断れば、すべての計画が台無しになりかねない。

そこで身ごもっていることを内緒にしたまま、彼女を子楚に献上することにした。月満ちて、彼女は男の子を産んだ。これが政である。子楚は彼女を正式に夫人にした。

昭王の50年、秦は軍を出して邯鄲を包囲した。このため趙は人質である子楚を殺そうとした。呂不韋は監視の役人たちを買収して、子楚を逃がし、無事、秦の陣営まで送り届けた。

昭王の56年、昭王が没して、太子の安国君が即位し、華陽夫人は后、子楚は太子となった。太子の妻子を殺害するわけにも、とどめおくわけにもいかないので、趙は子楚の夫人と政に護衛をつけて秦へ帰らせた。

安国君は在位3日にして没し、孝文王とおくりなされた。代わって太子の子楚が即位した。これが荘襄王(そうじょうおう)である。荘襄王の元年、王は呂不韋を丞相にとりたてたうえ、文信侯に封じ、洛陽10万戸の所領を与えた。呂不韋の家の下僕は1万人に達した。

荘襄王は在位3年にして没し、太子の政が王位についた。政は呂不韋を尊んで相国(しょうこく・宰相)とし、仲父(ちゅうほ)と呼ぶことにした。政はまだ13歳と幼かったので、母太后はおりをみては呂不韋と不義を重ねた。

当時、魏には信陵君、楚には春申君(しゅんしんくん)、趙には平原君(へいげんくん)、斉には孟嘗君(もうしょうくん)がいて、それぞれ食客(しょっかく)を集めることが好きで、競いあっていた。呂不韋もこれに負けじと、多くの食客を集め、その数は3000人に達した。

当時は諸侯のもとに身を寄せる弁舌の士が多く、荀子など、その著書が天下にあまねく広がっていた。

そこで呂不韋も、自分のところの食客たちにそれぞれ文章をおこさせ、「八覧」「六論」「十二紀」の計20余万字からなる書を編纂した。天地、万物、古今の事柄すべてを網羅したと称し、『呂氏春秋』と名づけた。

咸陽(かんよう)の市場の門に並べて、その上に千金をつりさげ、諸国の学のある者を招き寄せ、「これらの書物の内容について一字でも増やしたり削ったりできる者には千金を与えよう」と触れを出した。

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