中国・四川省、成都武侯祠の孔明像。蜀の君主である劉備も祀られている。
映画「新解釈・三國志」が公開され、話題となっている。その主人公である劉備と、軍師の諸葛孔明は、史上屈指の「理想の主従」として語られてきたが、その実像はいかなるものだったのだろうか。三国志研究の第一人者が解き明かす。
※本稿は、『歴史街道』2021年1月号の特集「諸葛孔明と劉備」から一部抜粋・編集したものです。
【渡邉義浩 PROFILE】早稲田大学理事・教授、早稲田佐賀学園理事長。昭和37年(1962)、 東京都生まれ。筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程修了。文学博士。三国志学会事務局長。専門は中国古代思想史。著書に『三国志』『漢帝国』『人事の三国志』『三国志 研究家の知られざる狂熱』などがある。
三国志の時代は、価値観が大きく変わろうとする転換期でした。2世紀後半の中国では、400年続いた漢帝国の体制が大きく揺らぎ、従来の価値観が崩れていきました。
しかし、これからの価値観はまだ見えてこない……。「先が見えない状況下で、時代が大きく動いていく」という特徴は、現在と似ているように感じます。
そんな転換期にあって、先を見据え、「次の時代」をつくろうとする人たちがいました。一方で、漢を守ろうという人たちも根強く存在しました。今日の言葉でいえば、革新と保守が綱引きをしていたのです。
「次の時代」をつくろうとする人の代表が曹操であるならば、漢の再興を目指した劉備と諸葛亮は、「今の時代」を立て直そうとする側の人間でした。
曹操と劉備が世に出る契機となったのは、奇しくも同じ出来事でした。当時、漢では政治の腐敗が進み、国が混乱していました。さらに西暦184年、宗教結社による黄巾の乱が勃発。その平定のために立ち上がった勢力の中に、曹操も劉備もいたのです。
乱自体は平定されたものの、混乱の中で群雄割拠状態となり、董卓が献帝を擁立して権力を掌握。董卓の死後は、袁紹と、献帝を押さえた曹操が二大勢力として激突し、これに勝利した曹操が、最大勢力を誇るようになります。
その間、劉備は曹操に臣従した時期もあり、漢の左将軍や、重要拠点である豫州の牧などに任じられ、厚遇されていました。
漢帝室の一族だった中山靖王・劉勝の末裔を称した劉備に、漢への思い入れがあったのは確かだと思います。後に曹操と袂を分かったのは、漢に対する思いが合わなかったことも一因でしょう。
ただし当初の劉備については、「漢の再興のために挙兵した」というより、「戦乱に乗じて一旗揚げようとした」といった印象を、私は持っています。劉備の集団がもつ特徴を見ると、その印象は一層強まります。
最初に挙兵したとき、劉備は馬商人の張世平らから、資金を提供されました。その後は、糜竺という大商人に援助されています。また、関羽は塩商人の用心棒だったと思われますが、ようするに劉備のもとに集まったのは、漢の国教である儒教の価値観では、社会的に低く見られる人々でした。
彼らは財力、腕力といった「力」をもっています。その「力」を発揮して、混乱した社会の中で上昇していこうとしたのが、劉備の集団だったのではないでしょうか。
実際、劉備は武力で頭角を現しました。『三国志演義』のイメージとは異なりますが、劉備は「戦うのが上手な傭兵隊長」と捉えるのが適切です。なお、劉勝の子孫は一万人ほどいるといわれ、劉表や劉璋など、漢の皇帝に連なる有力者と比べて、劉備は明らかに筋目が良くありません。
そんな劉備が「漢の再興」を前面に掲げるようになるのは、諸葛亮と出会ってからです。言い換えるならば、諸葛亮を家臣に迎えることで、劉備の生き方が大きく変わったのです。
200年、劉備は、提携する袁紹が官渡の戦いで曹操に敗れると、荆州の劉表のもとに身を寄せました。そして、207年に「三顧の礼」で、諸葛亮を家臣に迎え入れます。荆州に来てからの5、6年間、劉備は人材の発掘をしていました。
諸葛亮の師である司馬徽と会い、「臥龍」「鳳雛」という人材がいることを聞いたと、正史の『三国志』に出てきます。その「臥龍」こそが諸葛亮ですが、司馬徽は諸葛亮の存在を劉備に教える一方で、諸葛亮にも劉備の人物像などを語ったのでしょう。
諸葛亮の志は、漢を建て直すことでした。そして、それを担えるのは劉備だと評価したからこそ、仕えることにしたわけです。しかしなぜ、荆州の支配者である劉表ではなく、その客将でしかない劉備を選んだのでしょうか。
劉表は漢帝室の一族であり、しかも諸葛亮と縁戚関係にありました。劉表に仕えるのが自然に見えますが、それでも諸葛亮はその選択をしなかったのです。諸葛亮が劉備を選んだ理由のひとつとして考えられるのは、「漢への思い」の差です。
劉備は官渡の戦い以前、漢を再興しようとする董承たちの謀議に加わり、曹操を倒そうとしたことがあります。この一件に、諸葛亮が注目したとしても、おかしくありません。
一方の劉表はというと、漢の行く末を真剣に考えていなかったと見ていいでしょう。官渡の戦いの際、南から攻め上がれば献帝の身を曹操から奪還できたはずなのに、それをやらなかったからです。漢再興を志す諸葛亮にとって、その一事でも劉表は論外だったのかもしれません。
もうひとつ、重要な理由として考えられるのは、「自分の志をきちんと受け入れてくれる」ということです。諸葛亮の友人の徐庶と崔州平は、曹操に仕えたものの、すでに荀彧ら優れた参謀がいたこともあり、重用されませんでした。
ところが、劉備にはブレーンがいません。商人出身の糜竺は政治向きのことには口を出せず、孫乾や簡雍は使者の役割を果たせても、大きなビジョンは描けない。だから、劉備のもとにいけば重用され、自分の志が実現できると踏んだのではないでしょうか。
ただし、単に迎えられるだけでなく、「重んじてくれる保証」が必要でした。劉備が豫州牧だったとき、陳羣という一流の知識人が仕えていましたが、関羽や張飛が優先され、進言をあまり聞いてもらえなかったため、劉備のもとを去っています。
そうすると「三顧の礼」とは、陳羣と同じ轍を踏まないために、諸葛亮が劉備サイドに「重用する姿勢」を求め、劉備がそれを示した、いわばデモンストレーションなのではないかとも考えられます。
もっとも、それは劉備にとっても重要なことでした。関羽や張飛に対して、「これからは知識人を重んじていくのだ」と示すと同時に、荆州の知識人たちの支持を得るためにも、「自分は知識人を重んじる」とアピールしなければならなかったからです。
いずれにせよ、諸葛亮を得たことは、劉備にとって大きな転換点になりました。それまでは、武力によってある程度の土地を確保することができても、そこを拠点として地固めすることはできませんでした。
しかし、諸葛亮が加わることにより、劉備は国というもののあり方が見えてきて、「漢再興」を掲げ、漢を支えるための国を建てるという大きなビジョンをもつことができたのです。
更新:11月23日 00:05