劉備に仕えたとき、諸葛亮は27歳の若さでした。それまで官職に就いたことも、戦場に立ったこともありません。したがって、すぐに集団の中枢に入れるはずはないのですが、劉備が庇護することで、それを果たしたと思われます。
しかし、いつまでも劉備の庇護に甘んじていたわけではありません。赤壁の戦いの後は、諸葛亮と関わりのある荆州の人材が劉備軍団に加わってきて、次第にその立場が強化されていきます。
最初は劉備の後押しがあったものの、時が経つにつれ、諸葛亮は荆州人材を政治的な基盤として、影響力を強めていきました。劉備はそうした諸葛亮を喜んだかというと、私はそうは思いません。諸葛亮の影響力拡大を受け、劉備は徐々に諸葛亮を警戒し始めたのではないでしょうか。
益州に入ったのち、劉備が法正などの荆州以外の人材を重用したのは、諸葛亮に対抗させるためのものととることもできます。劉備の晩年、二人の「せめぎ合い」は頂点に達しました。
219年に関羽、221年に張飛が非業の死を遂げると、激怒した劉備は、その仇である呉を討つべく出征。ところが、夷陵の戦いで大敗してしまいました。白帝城に入った劉備は病床に臥し、諸葛亮を呼び寄せます。
この時期には、挙兵以来の家臣である趙雲も諸葛亮に近い立場にあり、後継者である息子の劉禅は暗愚と、劉備には頼るべきものがありませんでした。だとすれば、強固な勢力をつくった諸葛亮に、劉備は脅威を感じたのではないでしょうか。
劉備は世を去るとき、諸葛亮に「我が子が皇帝としてふさわしくないと思えば、あなたが取って代われ」と告げました。
劉備の置かれた状況を考えると、この言葉は諸葛亮を牽制しようとしたもので、「あなたをあまり信頼していない」という劉備の本音が吐露されたものと私は受け止めています。そうだとすれば、諸葛亮は大きなショックを受けたに違いありません。
諸葛亮の基本方針は漢の復興であり、その旗印である劉禅に取って代われば、もはや蜀が漢ではなくなります。ですから、劉備からそのような言葉を投げかけられても、諸葛亮の志が変わるはずはありません。実際、劉備の死後も劉禅を支え続け、5回にわたって北伐を指揮しています。
とはいえ、5回に及んだ北伐も、ついに成功することはありませんでした。強国である魏に挑み続けたことを、不思議に思う人も多いでしょう。
しかし国力差がありながらも北伐をやめなかったのは、それが国是だからです。蜀は漢を再興するために建てた国家だからこそ、北伐をやらざるを得なかったのです。もっとも、「やらないと滅ぶ」という切迫感のほうが大きかったかもしれません。
小国は戦い続けなければ、大国との国力がどんどん開いてしまいます。現実問題として、諸葛亮は戦うしかなかったのです。
もうひとつ、北伐を続けた理由として、劉邦の前例が考えられます。劉邦は負け続けながらも、長安周辺を押さえることで、最終的に項羽に勝っています。「長安さえ取ったら、勝つ可能性はある」。諸葛亮は、そう捉えていたのではないでしょうか。
劉備が健在だった時期、諸葛亮が戦場に出ることは、ほとんどありませんでした。しかし劉備の死後、諸葛亮は宰相であるとともに、軍略を兼ね備えた将軍としての役割が求められ、自ら兵を率いることになりました。
諸葛亮自身、自分の軍事的な才能をあまり評価していませんが、能力の高い人なので、普通の将軍以上には戦えます。それでも北伐は成果が乏しく、諸葛亮の死後、蜀は滅びの道を歩みました。とはいえ、諸葛亮を責めるのは酷というものです。
劉邦には、宰相の蕭何、軍略を立てる張良、そして戦場で指揮を執る韓信がいました。「漢の三傑」と呼ばれる彼らの支えがあってこそ、劉邦は漢を建国できたのです。
その3人の役割を、諸葛亮はただひとりでこなさなければならなかったのですから、抱えたものが大きすぎます。宰相としての諸葛亮は蕭何に匹敵し、歴代の名宰相に引けを取りません。中国史上、最も優れた宰相といって良いでしょう。
では、劉備はどう評価できるのか。度量が大きいという昔のアジア的君主の典型であり、優れた君主だったと私は見ています。現代では曹操のように、トップ自らが変革を推進していく人が求められ、劉備のようなタイプは流行らないのかもしれません。
しかし情があって、部下の進言通りにやらせ、うまくいかなければ自分が死ねばいいという覚悟のあった人だからこそ、関羽や張飛も最後まで劉備に従い、諸葛亮も劉禅を支え続けたのではないでしょうか。
ただ、敢えて指摘するならば、劉備と諸葛亮が当時の中国に果たした役割は、それほど大きくありません。歴史は曹操の目指すほうへと進んでいきましたし、劉備と諸葛亮の2人がいなければ、もう少し早くに戦乱が終わっていただろうという気がしないでもないのです。
しかしながら、漢の伝統をつないだという点において、2人は中国史上に大きな足跡を残したと評価できます。
私は「古典中国」という言葉を使うのですが、劉備と諸葛亮は漢再興を求め続けることで、漢を中国における古典的存在とし、「漢民族」というアイデンティティーの確立に、大きな役割を果たしました。それが、中国全体に与えた影響は、いうまでもないでしょう。
鮮卑人の流れをくむ隋・唐ができた後も、中国人は自分たちの国家を「漢」と呼ぶようになりました。2人がいなければ、隋や唐を「鮮卑人の国家だ」と、中国人も私たちも呼んでいたかもしれません。
――最後に、三国志の魅力について触れておきますと、それは戦乱期が際立たせる豊富な人間像にあると思います。
曹操が思い描いていた土地制度などは、300年先の隋・唐になって実現しました。それほど先を見据えて動く人は、混乱期だからこそ、力を発揮できるのです。あるいは、呉の魯粛のように、「中国は分裂していて良い」と、誰もが考えつかなかったことを発想する人もいました。
このような個性的な人物が数多く出てくるところに、私は魅力を感じます。いま、日本はひとつの価値観では収まらなくなり、混迷しています。それにもかかわらず、日本人は周囲に合わせようとする傾向があるようにも見えます。
もっと自由に、言うべきことをきちんと主張し、自分自身で実行していかなければ、新しい時代は始まらない──。三国志からそんなことを、考えていくべきではないでしょうか。
更新:11月27日 00:05