Wikimedia Commons/Lafcadio Hearn in 1889
連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公のモデルとなった小泉セツは、生まれた時に、小泉家から稲垣家へと養女に出され、稲垣家で育つこととなる。稲垣家の家柄と、セツを育てた養父母・養祖父について紹介しよう。
※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
セツは生まれる前から、稲垣金十郎(きんじゅうろう)・トミ夫妻の養女となることが、決められていた。
子宝に恵まれていた小泉湊・チエ夫妻と違い、稲垣金十郎・トミ夫妻は子どもを一人も授かっていなかった。そのため、稲垣家と小泉家の間では、次に小泉家に子どもが生まれた時は男女を問わず、稲垣家の養子にもらい受けるという約束が交わされていたのだ。
セツを養女に迎えた時、金十郎は26歳、トミは24歳で、稲垣家の戸主は金十郎の父である49歳の稲垣万右衛門(まんえもん)保仙(ほせん。1819〜1898)だった。
小泉家が上士の家柄であるのに対し、稲垣家はそれより一段下がる並士の家柄である。稲垣家は元祖の稲垣藤助(とうすけ)が、延宝元年(1673)に二代目松江藩主・松平綱隆に仕えてから、六代目にあたる万右衛門(セツの養祖父)まで、番頭の指揮下にある組士をおおよそ務めていた。
家禄は、三代目から百石が与えられた。これは士分の侍のなかでも、平均的なものである。
稲垣家は、城下町の西北にあたる内中原町(うちなかばらちょう)に屋敷を構えていた。小泉家の屋敷とは、松江城を挟んで、反対側に位置する。
稲垣家の人々は格式の高い家で生まれたセツを、敬愛の意を込めて、「おジョ(お嬢の略)」と呼び、大切に慈しんで育てた。
セツもまた、養父母・養祖父を深く愛した。
「幼少の頃の思い出」によれば、セツは「もらい子」であることを、三歳くらいから知っていた。セツにとって、自分がもらい子であると思うことは、最も嫌な不快極まることだった。
養い育ててくれた養父母・養祖父は、実父母とは比べものにならないほど大切な存在で、それは今も変わらないと、セツはのちに「幼少の頃の思い出」に記している。
そうした境遇で育ったセツは幼い頃から物語を聴くのが大好きで、大人を見つけては、「お話ししてごしない」とせがんだという。そうして聴いた数え切れないほどの説話を、二人目の夫となるラフカディオ・ハーンに語り聴かせることになるのだが、それはまだまだ先の話である。
セツの養父となった稲垣金十郎は、「稍(「やや」の意か) 覇気に乏しい善良な人」だった。大の甘党で、王政復古の大号令の前、京都警備の任に就いていたが、緊迫する情勢のなか、配下の者に命じ、毎日のように、烏丸通に好物の菓子を買いに行かせたという(長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』)。
養母となったトミは、北堀町(きたほりちょう)に居を構えていた、家禄百石の原忠兵衛(ちゅうべえ)の娘であるが、幼い頃、杵築(きずき。島根県出雲市大社町)の高浜家の養女に迎えられ、成人した。
高浜家は代々、出雲大社の上官(高級神官)を務め、「釜の上官」と称され、大社の祭礼や儀式において、重要な役割を果たしてきた。
ゆえにトミは、出雲神話をはじめ、多くの説話をセツに語り聴かせることができた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の、「魂について」(『知られぬ日本の面影』所収)、「阿弥陀寺の比丘尼(びくに)」(『心』所収)などは、セツがトミから聴いた話を、ハーンに話して創られた作品である。
トミは学こそなかったが、大変に器用な女性だった。後年、東京の家で、セツの夫であるラフカディオ・ハーンの好物であるステーキを、見よう見真似で調理したところ、ハーンの親友の横浜グランドホテルの社長ミッチェル・マクドナルドに、「うちのホテルのシェフが焼いたものよりおいしい」と感嘆されるほどだったという(小泉凡『怪談四代記 八雲のいたずら』)。
セツの養祖父・万右衛門は、昔ながらの生粋の武士で、幕末に砲術方の任に就いていた。
安政2年(1855)には隠岐の砲台にて異国船見回りを務め、文久3年(1863)、十四代将軍・徳川家茂が上洛して、孝明天皇の賀茂神社への行幸に随行した際には、京都の二条城や御所の警備を担った。
やがて、砲術方頭取に任じられ、元治元年(1864)8月、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国連合艦隊による下関砲撃にともない、神門郡の海岸(出雲国西岸)の西洋式砲台へ送り込まれている(以上、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』)。
万右衛門は、セツが3歳の時に隠居した。だが、時代が変わっても、武士の気位を捨てきれず、それは長じてセツに悲劇をもたらす一因となる。
なお、万右衛門の姉・ツタは、トミが養女となった高浜家に嫁している。
更新:10月07日 00:05