Wikimedia Commons/The Modern Review. October 1913
連続テレビ小説『ばけばけ』では、主人公の松野トキの縁戚で、なにかと彼女を気にかけてくれる雨清水家が存在感を発揮している。特に北川景子さん演じる雨清水タエは、凛とした姿で注目されている。そして、そのタエのモデルと思われる女性、つまり小泉セツの実母・小泉チエには、驚愕すべき過去があった――。
※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
セツの実母で、塩見増右衛門(しおみますえもん)の一人娘であるチエもまた、数奇な運命に弄ばれている。
チエは、「御家中随一の御器量」と称された美貌の持ち主だった。夫・小泉湊(みなと)よりもすらりと背が高く、その姿は鳥居清長の錦絵美人にたとえられている。天保8年(1837)3月21日に生まれ、15歳でセツの父・小泉湊と結婚し、30歳の時にセツを出産している。
だが、チエのはじめての夫は、小泉湊ではなかった。チエは満13歳になる少し前に、ほぼ同格の家柄である武士の家に嫁いでいる。
婚礼は、盛大に行なわれた。チエが悲劇に見舞われるのは、その晩のことである。
花嫁となったチエは、寝所で花婿の訪れを待っていたが、夜が深まっても、花婿が姿を見せることはなかった。
やがて庭先から、ただならぬ物音が響いてきた。すると、チエは護身の合口(懐刀)の袋緒を解き、雪洞をさげた侍女を一人従えて姑の居間に向かい、廊下から姑に、「母上様、御寝なりましたか? 夜中お騒がせ申し相済みませぬが、旦那様にはいまだに御床入りなく、しかも、ただ今、お庭前にて、ただならぬ物音が致しました」と落ち着いた声で告げている。
「はて、面妖な」と家中の者たちが呼び起こされ、手燭や提灯を手に庭へ下りた。
すると、そこには凄惨な光景が広がり、血の臭いが漂っていた。腹を一文字にかき切ったうえに、右頸筋(首筋)を斬った男が雪見燈籠に突っ伏し、首をほぼ斬り落とされた状態の女が松の根元に倒れ、二人とも息絶えていたのだ。
男は花婿。女は花婿の愛妾だった。
身分違いの結婚など、許されない時代である。花婿は婚礼の当日まで、愛妾を家に置いていたが、その夜を最後に親許へ帰すことが決まっていた。愛妾には、故郷に許嫁がいたという(工藤美代子『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯【日本編】』)。
ところが、花婿は愛妾を手放すのを、惜しんだ。花婿は愛妾の首に刀を振りおろし、自らも腹を切り、無理心中を図ったのだった。
翌日に集まった親戚一同の多くは、家名を汚した花婿を罵った。葬式の真似事すらする必要なしとされ、遺体も「表門から出すことは憚りならぬ」と、不浄門から運び出された。まるで、捨てるかのような弔い方だったという。
花婿の心中事件後、チエはすぐに里に引き取られている。
死後も非難を浴びる花婿とは対照的に、僅か13歳の若き身で、取り乱すことなく、凜と健気に振る舞ったチエを褒め称えない者はいなかった。「嫁に欲しい」という申し込みが殺到し、親が決めかねて、本人に尋ねたところ、チエは小泉家を選んだ。
そうして、心中事件から一年余を経た嘉永4年(1851)の晩秋、チエは小泉湊のもとに嫁ぎ、のちにセツが誕生する。だが、セツはこの小泉湊・チエ夫妻に育てられることはなかった。
セツは誕生7日目を祝う「お七夜」を終えた次の晩、すなわち生まれて8日目に、乳母とともに遠縁にあたる稲垣家に赴き、稲垣金十郎(1841〜1900)・トミ(1843〜1912)夫妻の養女となったからだ。
更新:10月18日 00:05