
原典:http://www.trussel.com/f_hearn.htm
連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公・松野トキは、松江にやってきた英語教師、レフカダ・ヘブンと出会うこととなる。そのモデルは、あのラフカディオ・ハーン、つまり小泉八雲である。だが、そのハーンも、松野トキのモデル・小泉セツ同様に、苦難の前半生を歩んでいた。
ここではまず、ハーンの暗雲垂れ込める生い立ちを紹介しよう。そこからは、レフカダ・ヘブンの名前に込められたものも見えてくるかもしれない。
※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
ラフカディオ・ハーンは、1850年(嘉永3)6月27日に生まれた。日本にペリーがはじめて来航する3年前である。生誕地は、ギリシャの西方海上にあるイオニア諸島の一つ、レフカダ島。古代ギリシャの女流詩人・サッフォーが身を投げたなど、ハーンの生誕地にふさわしく多くの伝説が残る島である。
父は、アイルランド出身で、イギリス陸軍の軍医補チャールズ・ブッシュ・ハーン(1819〜1866)だ。
ギリシャは1832年(天保3)から独立を認められていたが、イオニア諸島は当時イギリスの保護下にあり(田部隆次『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』)、イギリス軍が駐在していた。
だが、ハーンが生まれた時、父・チャールズは本国に召還されており、誕生に立ち会っていない。ハーンがはじめて父と対面するのは、1853年(嘉永6)、3歳の時である。
ギリシャ人の母、ローザ・アントニウ・カシマチ(1823〜1882)は、イオニア諸島最南端のキシラ島(チェリゴ)の、名門の家に生まれた。ハーンは、チャールズとローザ夫妻の次男である。
当時、アイルランドはイギリスに併合されており、アイルランド人の父をもつハーンの国籍は、イギリスである。
ハーンは、生誕の島「レフカダ島」にちなみ、パトリキオス・レフカディオス(英語読み:パトリック・ラフカディオ/以後、英語読みで表記)と命名された。「パトリキオス」は、アイルランドの守護聖人「パトリック」のギリシャ語読みである。
パトリック・ラフカディオ・ハーンが彼の名となるが、レフカダは古代ギリシャ語で「彷徨」という意味を持ち、ハーンの由来はラテン語のErrare(漂泊)だという(芦原伸『へるん先生の汽車旅行 小泉八雲と不思議の国・日本』)。
その後のハーンが辿る果てしなき流浪の日々を、運命づけるような名であった。
ハーンの父・チャールズの家は、イギリスから渡ってきた「アングロ・アイリッシュ」と称される上層階級に属していた。人口のほとんどがカトリックであるアイルランドにおいて、アングロ・アイリッシュはプロテスタントを信仰している。
父・チャールズはウェーヴのかかった黒っぽい髪と、丸い大きな瞳、彫刻を施したかのような美しい鼻をした美男だった。
一方、母・ローザは、ギリシャ正教の熱心な信者で、ふっくらした丸い顔に黒い瞳が煌めく、際だった美貌の持ち主だったという(以上、O・W・フロスト著、西村六郎訳『若き日のラフカディオ・ハーン』)。
美男美女の二人が出会い、恋に落ちたのは、チャールズが1848年(嘉永元)4月に赴任した、キシラ島だったとされる。
だが、二人の結婚は、ローザの家族をはじめ、周囲の人々に猛反対された。イギリスへの敵愾心も、その理由の一つだったといわれる。
一説に、チャールズはローザの兄弟に闇討ちされ、半死の状態に陥り、ローザの介抱により、一命をとりとめたとされる。
これは作り話とみられているが(田部隆次『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』)、ハーンは、両親のドラマティックな恋物語を信じていたのかもしれない。
後年ハーンは、「私の両親の結婚については奇談がある」と手紙に綴ったという。
翌1849年(嘉永2)6月、チャールズはレフカダ島のイギリス軍基地に転属となり、ローザを伴って赴任した。 同年7月には長男ジョージ・ロバートが誕生し、11月にはギリシャ教会で結婚式を挙げている。
だが、チャールズの上官はローザとの結婚に反対だった。チャールズもこの結婚に不安を覚えていたのか、イギリス陸軍省に結婚報告書をすぐに提出せずに、2年もの間、留保している。
ハーンの両親の結婚は、誰からも祝福されなかったのだ。
更新:10月26日 00:05