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朝ドラ『ばけばけ』のモデル・小泉セツ 初めての結婚と実家の没落

鷹橋忍(作家)

小泉八雲と妻セツ
Wikimedia Commons/The Modern Review. October 1913

願っていた結婚を果たしたものの、実の父が亡くなり、そして夫がまさかの出奔……。連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公・松野トキは、次々と悲劇に襲われる。あまりにも劇的な展開だが、トキのモデルの小泉セツも、まさに同じような体験をしていた。セツがたどった苦難の道のりとは――。

※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

絶望する婿養子と、実家の倒産

明治19年(1886)、セツが18歳の年に、稲垣家の立て直しを図り、鳥取藩士であった前田小十郎の次男・前田為二が婿養子として迎えられ、セツと結婚した(入り婿婚)。

前田家は稲垣家と同じように困窮した士族で、為二は28歳だった。

物語好きのセツは、為二にも物語をせがんでいる。為二から聴いた「鳥取の布団」の話を、セツはハーンに語っている。

セツは浄瑠璃が好きな為二から勧められ、近松門左衛門の作品をたくさん読んだり、また当時、流行っていた月琴という弦楽器の演奏を教わったりしていたようだ。セツは為二との結婚を、喜んでいたのかもしれない。

しかし、為二は、すぐに稲垣家に絶望することになる。稲垣家の窮状を知らずに、婿養子となったのだろう。

稲垣家は財産がないだけでなく、事業の失敗による負債まで抱えていた。それにもかかわらず、セツの養父・金十郎は善良だが働く気力がなく、働き手はセツと、セツの養母・トミの女二人のみ。

くわえて、セツの養祖父・万右衛門は口煩く、気位だけは高かった。

為二の勤め先は、県庁とも機業会社ともいわれるが、いずれにせよ、それほど高くはないであろう月給で、妻のセツをはじめ、妻の養父母・養祖父までも養うことを期待されれば、嫌気が差すのも無理はなかった。

同じ頃、セツの実家である小泉家も、次から次へと不幸に見舞われている。

まず、当初は順調だったセツの実父・小泉湊の織物会社が倒産した。小泉家は、かつては配下の者が暮らしていた長屋に居を移さねばならなかった。やがて、そこも追われ、セツが為二と結婚した明治19年の7月には、縁者の家に、一家で身を寄せている。同年の1月には、湊の次男・小泉武松が19歳で早世していた。

さらに小泉家の不幸は続く。湊がリウマチを患って、病に伏した。機織りの仕事を続けていたセツだが、その合間をぬって、実父の看病に勤しんだ。実母・チエが看病を苦手としていたため、セツは先の長くない実父から、幾度も感謝の言葉をかけられている。

湊の長男・氏太郎は、長男としての責任を顧みることなく、同年に町屋に住む娘と駆け落ちし、行方知れずとなった。こうして一年のうちに、小泉家は長男と次男を失ってしまったのである。

セツより二つ年下の三男・藤三郎は、長男、次男に代わって一家を支えるどころか、野山で小鳥を捕まえ、飼育することに夢中で、まったく働く気がなかった。

藤三郎の行状が腹に据えかねたのか、湊は重い病の床にあったにもかかわらず、ある朝、藤三郎の襟首を摑み、「親不孝者め、腐った根性を打ち据えやる」と、憑かれたように鞭を振るった。

駆けつけた家の者によって連れ戻された湊だが、病状は悪化し、明治20年(1887)5月、51歳でこの世を去った。セツ、19歳の年のことである。湊の采配で何とか持ちこたえていた小泉家だが、その死を境に、どん底へと突き落とされていく。

しかし、この年、セツが失ったのは、実父だけではなかった。セツの夫・為二が出奔するのだ。

 

夫の出奔

明治20年(1887)、セツが19歳の年、セツの夫・為二が出奔した。貧窮する稲垣家に耐えきれなかったのだろう。実父と夫を失い、セツは窮地に陥った。

やがて、セツは為二が大阪にいるとの噂を耳にする。セツは使いの者を送り、帰って来るように頼んだが、聞き入れられなかった。諦めきれないセツは、何とか旅費を工面し、自ら大阪まで迎えに行っている。

為二に会うと、セツは「帰って来てほしい」と懇願したが、為二は冷酷な言葉を浴びせるだけだった。

この時セツは、橋の上から投身しようとまで、思い詰めた。だが、家族の顔が浮かび、思いとどまったという。松江に戻ったセツは、養家の稲垣家にくわえ、実家の小泉家も支えていく。あまりにも重い荷を背負ったセツであった。

 

ハーンとの出会い

セツの長男・小泉一雄の『父小泉八雲』によれば、セツと為二との離婚届けが正式に受理されたのは、明治23年(1890)1月で、事実上の離婚はそれより一両年前、稲垣家から為二の籍が完全に除かれたのは、明治34年(1901)9月だという。

離婚届けが受理されたことにより、セツは戸籍上、実家の小泉家に復籍した。

だが、セツが稲垣家を去ったのではなく、養父母たちと共に生活をしながら、実母チエや姉弟も、稲垣家に寄寓するという状況だったとみられている(高瀬彰典『小泉八雲の世界 ハーン文学と日本女性』)。

明治23年から明治24年(1891)にかけて、松江は大寒波に見舞われた。セツは貧困に喘ぐとともに、粗末な家で寒さに震えていた。

このまま家族もろとも凍死するのを防ぐため、セツはある決意を固める。外国人教師の住み込み女中の仕事を、引き受けることにしたのだ。

当時、外国人の住み込み女中となれば、「洋妾(ラシャメン)」、つまり外国人の愛人との非難を浴びる恐れがあった。だが、セツは家族を養うために、どんな汚名も被る覚悟を持っていた。

セツが住み込み女中となる外国人教師の名は、ラフカディオ・ハーン、のちの小泉八雲であった。

 

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