2021年03月23日 公開
2021年07月14日 更新
「生きていれば戦争は避けられたのではないか……」。そう惜しまれている陸軍の軍人がいる。二・二六事件で殺害された、渡辺錠太郎である。その死の背景に迫ると、あり得たかもしれない「もう一つの未来」が浮かび上がってくる。
※本稿は、『歴史街道』2021年4月号の特集「『昭和の陸軍』光と影」から一部抜粋・編集したものです。
昭和11年(1936)2月26日、「昭和維新」を目指す青年将校らは、麾下の部隊を率いて政府や軍の要人を襲撃する事件を起こした。
この時、襲撃を受けて殺害された軍・政府の要人は内大臣の斎藤実(海軍大将)、大蔵大臣の高橋是清、陸軍教育総監の渡辺錠太郎(陸軍大将)である。総理大臣の岡田啓介(海軍大将)も襲撃を受けたが難を逃れ、侍従長の鈴木貫太郎(海軍大将)は重傷を負うも一命をとりとめる。二・二六事件である。
この事件は、陸軍内部の派閥抗争に、社会情勢を憂う青年将校の過激な正義感が絡み合って引き起こされ、日本の行く末に大きな影響を与えた。渡辺は、その派閥抗争の一方の当事者だったのである。
渡辺のことを「参謀総長要員だよ」と高く評価したのは、陸軍の逸材として期待された永田鉄山である(高宮太平『軍国太平記』)。参謀総長は教育総監と並ぶ陸軍三長官の中でも軍の「統帥」を担っている。閣僚ではないが、政治にも大きな発言力を持つ。
仮に渡辺が生き残っていたとして、本当に参謀総長になっていたかはわからない。しかし、彼の盟友であり、士官学校同期でもあった林銑十郎が教育総監から陸相、後には総理大臣にまでなったことを考えると、渡辺の参謀総長や陸相の可能性は決して低くない。
そして、「渡辺が生きていれば戦争は避けられたのではないか」と悔やむ人もいる。彼らはなぜ、そう思ったのか。渡辺の何が、そのような「歴史のif」を想起させるのだろうか。
更新:11月22日 00:05