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二・二六事件で失われた、ある陸軍軍人の命と「もう一つの日本の未来」

2021年03月23日 公開
2021年07月14日 更新

岩井秀一郎(歴史研究家)

 

なぜ青年将校に狙われたか

帰国から二・二六事件までの渡辺の履歴を簡単に記すと、日本に帰った大正9年の8月に少将に進級、14年(1925)5月には中将となり、陸軍大学校の校長に就任した。

翌年3月、第7(旭川)師団長として北海道に赴く。その後は陸軍航空本部長や台湾軍司令官を経験し、昭和6年(1931)8月、ついに陸軍大将となる。

しかし、この時すでに軍内部では不穏な動きが頻発していた。昭和6年には、橋本欣五郎ら「桜会」のメンバーを中心とするクーデター計画(3月事件、10月事件)が発覚する。

さらに、陸軍の改革を目指して活動していた俊秀の三人、小畑敏四郎、岡村寧次、そして永田鉄山のうち、小畑と永田が激しく対立する。

彼らは荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らを担いで陸軍の改革を行なおうとしていたが、当時脅威だったソ連への対応などを巡って衝突したのである。荒木は小畑を重用し、永田を疎んじるようになる。

荒木は昭和6年12月に成立した犬養毅内閣で陸相に就任し、参謀総長には皇族の閑院宮載仁元帥を戴いた。「皇族」という権威を活用すると同時に、皇族ゆえに実務にタッチさせられないということで、盟友の真崎甚三郎を参謀次長にもってきた(岩村貴文『渡邉錠太郎:軍の本務は非戦平和の護持にあり』)。

こうして人事を牛耳り、荒木と真崎を中心とする皇道派は全盛時代を迎えた。しかし、荒木が陸軍の予算を思い通りに獲得できないと、当初彼らに期待した若手のエリート将校は失望するようになる。

さらに「皇道派」専横の人事への憤りもあり、荒木、真崎らは次第に軍の中枢から遠ざけられていく。その対抗馬となったのが林銑十郎であり、支えたのが永田鉄山、そして渡辺錠太郎であった。

皇道派と、対抗するグループ(現在、統制派と呼ばれる)との抗争の経緯については、ここでは詳しく触れない。

概要を記せば、参謀次長から教育総監に異動した真崎が、永田や渡辺の支援を受けた林によって更迭され、その後任に渡辺が就いたことが、真崎らを慕う青年将校の怒りを買った。

しかも「天皇主権説」に立つ青年将校にとって、渡辺は「天皇機関説」を支持していると噂(彼らは事実と思っていた)される人物で、激しい攻撃の対象となっていた。渡辺が教育総監になったのは昭和10年(1935)7月のことだが、すでに自分が殺されることを覚悟していた。

実際、事件当日は襲撃部隊に対して持っていた拳銃弾が空になるまで応戦している。死の前には、青年将校らの政治的行動を激しく批判し、軍紀の紊(みだ)れを痛憤している(『渡辺錠太郎伝』)。

 

「下剋上」を拒絶する強さと知性

では、渡辺が生きていれば歴史はどうなったか。渡辺をよく知る新聞記者の高宮太平は、「渡辺は内に火のような正義感を持ち、平素はそれを深く蔵してあらわさなかった。けれども、一度決心すると何者もおそれない。それはみずから求むることのない者のみが持つつよさであった」と評する(高宮太平『昭和の将帥』)。

そして、もし渡辺が陸軍の実権を握ったならば、永田とは違った方向から内部を粛清しただろうと。それは「道理をもって邁進する」ことであり、そこからはずれたものは仮借なく粉砕し、派閥などは決して許さず、一大鉄槌を下すだろう。安穏な死を迎えることはできないだろうが、渡辺ほどの人間なら「戦争への暴走」はある程度阻止しえたのではないか、と(同書)。

実際、渡辺は当初は派閥抗争とは無縁で、外部からみても目立つ存在ではなかった。軍人として政治に関与することを避け、ただ自分の職務にのみ忠実だった。

それが林を助け、さらに教育総監となり、永田が殺害されてからは真崎の責任を激しく問い詰めるなど、明確に闘志を燃やして行動した。死を覚悟して。それは高宮が言うように、私心のうすい渡辺だからこそできたことだろう。

渡辺を惜しんだのは高宮だけではない。昭和18年(1943)3月、すでに太平洋戦争が相当不利な局面を迎えていた時、宇品にあった陸軍の船舶司令部の司令官・鈴木宗作(中将)は、参謀の堀江芳孝少佐に対し「渡辺教育総監は非常に高い見識と広い国際感覚を持っておられたのにこれを殺すなどもっての他」と述べている(堀江芳孝『辻政信 その人間像と行方』)。

鈴木は、士官学校24期で、陸大は渡辺と同じく首席で卒業するという知性派であった。のちにフィリピンで戦死し、死後大将に進級する。堀江によれば、鈴木は軍人の政治関与を批判し、陸軍は滅亡するだろう、と悲観していた(同書)。

戦争が不利になった時、現役の将軍が思い出す人物が渡辺だったというのは、注目に値する。現役、予備役含めて数多くの人材がいる中で、開戦前に死んだ渡辺錠太郎という人物は、「もし生きていれば」と痛感させるだけの軍人だったということだろう。

渡辺は、派閥を作らず、下(部下)を甘やかすこともなかった。それゆえ、高宮が言うように、陸軍を統制する際は、真正面からの「正攻法」が考えられる。「開戦か否か」という時に参謀総長であれば、当然ながら「戦争を避ける」方を選び、突き上げてくる部下にも妥協しなかったと思われる。

そうして陸軍の主戦派である参謀本部の第一部(作戦)を抑えられれば、あるいは戦争回避に一筋の光明が見えたかもしれない。そこまですれば、渡辺はやはり命を失い、また軍内部で多少の騒動もあり得たが、戦争で数百万の人命が失われることは避けられただろう。

「下剋上」と言われる昭和陸軍で、渡辺はその「下剋上」を拒絶するだけの強さと知性を兼ね備えていた。この資質と強情にも見える人格は、戦争を防ぎ得た数少ない可能性だった。しかし渡辺は、その強さと知性故に憎悪され、非業に斃れた。歴史の皮肉という他はない。

 

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