織田信長の二男・信雄と三男・信孝は同年の生まれ。本能寺の変の後、二人は後継者の地位を巡り争いを繰り広げた。彼らはどのような人物だったのか、その実像に迫る。
※本稿は、『歴史街道』2021年3月号より、内容を一部内容を抜粋・編集したものです。
織田信長の二男信雄と三男の信孝は、二人とも永禄元年(1558)の生まれである。
信孝のほうが20日ほど早く生まれたのに、母の家の身分が低いため報告が遅れ、三男にされてしまったと伝えられているが、確かなことはわからない。
だが、信雄の母が信長の最も寵愛した生駒氏(「吉乃」として知られる)なのに対し、信孝の母の生家は零細な土豪の坂氏で、母親の身分に大きな差があったことは事実である。
「天下人」信長のもとで成人した二人は、それぞれ官位を受けることになる。しかし、二人の待遇には大きな差があった。
信孝は20歳になった天正5年(1577)、従五位下侍従の官位を賜ったが、その時、名門北畠家を継いだ信雄はすでに従四位下左中将であった。
二人の待遇の差は、同9年(1581)2月に行われた馬揃えの際に、はっきりと示されている。信雄が長男信忠の次に30騎の騎馬武者を率いて行進したのに対し、信孝が率いたのは10騎にすぎなかった。
たしかに信孝は、兄の信忠・信雄に比べると格段に冷遇されていたといえる。
しかし、信長という父親は、四男以下の男子を一人前扱いしていない。家臣の養子に出したり、僅かな扶持を与えてただ養っているにすぎない。それを考えると、三男信孝までは息子として認められているといえる。
それは、信孝の能力を信長が認めていたということだろう。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、信孝について次のように評価している。
「彼は思慮があって、みんなに対して礼義正しく、また、たいへん勇敢である」
さらに、日本人によって書かれた史料にも、次のようにある。
「智勇、人に越えたり」(『柴田退治記』)
「御覚え御利発の有様」(『川角太閤記』)
なかなかの人物として広く認識されていたようである。それに引き換え、信雄の評判は芳しくない。フロイスは彼を次のように評している。
「狂っているのか、あるいは愚鈍なのか」
他の宣教師の書いた本でも、しばしば彼を「痴愚」と呼んでいる。江戸時代初期に成立した『勢州軍記』に次のような逸話が載っている。
伊賀河合にあった立派な杉の木を、信雄の家臣が誤って切ってしまった。その家臣を信雄は赦さず、追手を差し向けてまでして誅殺した。筆者の神戸良政は、人の命と植物とどちらが大切か、と厳しい批判を加えている。
信雄は決して「痴愚」などではなかったが、思慮が浅く、軽率な面があった、ということではなかろうか。
更新:11月21日 00:05