喜多川歌麿筆『画本虫ゑらみ』[天明8(1788)](国立国会図書館蔵)
2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は、「浮世絵黄金期」と呼ばれた江戸時代の天明~寛政期(1781年~1801年)に、版元として活躍した。当時無名だった喜多川歌麿に才能を見出し、スターダムへと押し上げた敏腕プロデューサーだったのだ。時代小説家の車浮代氏の書籍『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』より紹介する。
※本稿は、車浮代著『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
『吉原大通会』に描かれた蔦屋重三郎(手前の左から2人目、国立国会図書館蔵)
蔦屋重三郎という存在は、これまで映画やドラマにも、たびたび登場しています。ただし、いずれも主人公ではありません。したがって、2025年の大河ドラマが決まるまで、よほどの江戸好きでない限り、「彼の名前を知らなかった」という人が多かったと思います。
けれど名前が知られていないということは、蔦重にとっては本望なのかもしれません。なぜなら版元という仕事は、あくまで縁の下の力持ちだからです。現在の編集者や出版プロデューサーがそうであるように、主役となるのは、戯作者や絵師たち。彼らが有名になり、作品が売れることが仕事の本懐です。
その点で蔦重は、喜多川歌麿や東洲斎写楽など、彼がプロデュースした人間が世界的に名を知られるほど有名になったからこそ、今こうして脚光を浴びる存在になっているのです。版元の経営者としても、プロデューサーの見本としても、これほど名誉なことはないと思います。
恋川春町が『吉原大通会』という狂歌絵本で、大勢の狂歌師たちを描いているのですが、その中で彼らは、さまざまな衣装を着た個性的な人物に脚色されています。
では「蔦唐丸(つたのからまる)」の狂名を持つ蔦重は? といえば、彼の格好はいたって普通の商人です。あくまでバックサポートをする人物であるというのは、彼の要望でもあり、皆の認識でもあったのでしょう。
そして蔦重が売り出した異才の中でも、最大の成功例として知られているのが、浮世絵師の喜多川歌麿です。蔦重がいなければ、歌麿は世に出ていなかったとされるくらいです。
歌麿は蔦重と出会うまで、北川豊章(きたがわとよあき)というパッとしない浮世絵師でした。妖怪絵で知られる狩野派の絵師・鳥山石燕(とりやませきえん)のもとで絵を学びましたが、才能はあるものの人見知りで、なかなか起用されることはありませんでした。
蔦重は歌麿を恋女房ともども店舗兼自宅に住まわせ、名前も心機一転、喜多川歌麿として再デビューさせます。喜多川は蔦重の養子先の名字です。偶然にせよ、歌麿の北川と同じ音ならばと、"喜び多き"と自分の喜多川姓に寄せたのです。
歌麿という名も、蔦重の狂名である蔦唐丸に寄せたもの。現代では歌麿と書いて「うたまろ」と読みますが、当時は「うたまる」と読みました。また歌麿は別に「筆綾丸(ふでのあやまる)」という狂名も持っていることから、彼自身も狂歌を詠んだと思われます。ちなみに「筆綾丸」は「筆を誤る=描き損じる」の洒落です。
実は歌麿には、他の絵師と比べても抜きん出た得意技がありました。それは「描いてほしい」と言われたものを、即興で描く技術です。おまけにその精密な写実力は、師匠だった石燕も高く評価していたほど。
蔦重は彼を吉原で開催される狂歌の会に連れていき、皆が詠んだ歌に即興で挿絵を描かせることで、才能を披露しました。これによって歌麿は、多くの狂歌師に知られるようになります。
そして彼の名を確たるものにしたのは、1788年に出版された『画本虫撰(えほんむしえらみ)』という狂歌絵本でした。これは全15図からなる植物と虫や蛇、蛙などの絵に、人気の狂歌師たちが詠んだ歌を添え、目にも鮮やかな多色摺りを施したもの。歌麿の個性を大きく引き出した狂歌絵本で、まるで生物図鑑のようなリアルな描写と、彫摺の贅沢な凝りようで、多くの読者を驚かせました。
これも蔦重が歌麿の才能を見抜いたからこその出版企画だったのですが、やがて歌麿は、一気に時代の寵児となってゆきます。
得意な分野で才能を生かす。それと同時に、戯作者や絵師たちに新たな挑戦をさせて開花させるのも、蔦重が成功した要因でした。人見知りではあったものの、写実的な精密描写が得意な歌麿。植物や動物を描くのは得意でしたが、『画本虫撰』と同時に、蔦重は彼の才能を新たなジャンルへも向けさせます。
それが自然の絵とはまったく逆の「春画」というジャンルだったのです(ちなみに、交合図を春画と呼ぶようになったのは後年のことで、江戸時代は「枕絵」や「笑絵」、あるいは笑絵を略して「ワ印」などと呼んでいました)。
多くは男女がからみ合う姿を描くものですが、その分野への人間の関心は古代から尽きないようで、古くから日本でも描かれてきました(詳細を知りたい方は拙著『春画入門』〈文春新書〉をご一読ください)。
そして木版画による印刷物が大量に出回るようになってからは、春画の需要も大きく広がるのですが、風紀の乱れを恐れ、幕府はたびたび規制をかけます。「出版禁止令」により、春画や好色本の類は販売が禁止され、出版物は幕府の検閲をパスしたものしか店頭に置けなくなりました。
ところが反骨精神の旺盛な江戸っ子は、「表で売れないなら裏で売ればいい」と、秘密を守れる客だけ店の奥に通して、こっそりと春画の販売を始めます。しかも幕府の検閲を通す必要がないのを逆手に取って、絵柄はもちろん、彫りの複雑さや摺数の多さ、贅沢な絵具も使い放題です。
それには腕利きの彫師や摺師が必要で、さらにそれだけ経費をかけて高価な春画を作るのだから、人気絵師の作品でなければ売れません。現代と感覚が違うのは、当時は「版元から春画を依頼されることが一流の職人の証」だったことです。
実際、1700年代に摺られた春画には、格調高い名作が多くあります。このような風潮の中、蔦重は歌麿を起用して、初の春画制作に乗り出したのです。ちょうど幕府の禁令が緩んでいた田沼意次の時代。その隙をつき、蔦重は歌麿に、大判12枚ものの『歌まくら』という春画集の下絵を依頼しました。
蔦重と歌麿が拠点にしていたのは吉原です。「春画」を描くには、題材もモデルも事欠きません。ただし普通の春画では、法に触れるリスクまで冒して、皆が手に入れたくなるような作品にはなりません。そのためには画力だけでなく、江戸の人々をあっと驚かせる大胆さが必要でした。そのような蔦重の要望に、歌麿は見事に応えます。
『歌まくら』の12図は随所にこだわりが詰め込まれた傑作で、情欲を催すというよりも、アーティスティックで創造力に富んだ作品となっています。第1図の河童に犯される海女の絵に始まり、若衆の浮気心を責める年上の女、人妻の浮気、毛むくじゃらの男の腕に嚙み付いて抵抗する娘、肥満の中年夫婦などが続き、そして最後はなぜかオランダ人夫婦の交合図です。
それらはどれも、これまでの春画には見られない表情の豊かさで、通常は全身を描くものを、遠景にしたりアップにしたり、後ろ向きで顔を見せないなど、構図も凝りに凝っています。特に最後のオランダ人は、図柄がグロテスクで正視に耐えないのですが、巻き毛の1本1本を彫った彫師の執念にも感服します。
いずれにしろ、一方で万人向けの自然を描いた絵、もう一方で大人を喜ばせるアダルトな絵......と、蔦重は表と裏の二方面で、喜多川歌麿という才能を世に知らしめたのです。彼のプロデュース力が只者でないのは、この点からも明らかです。