2018年05月22日 公開
2022年03月15日 更新
元文2年5月22日(1737年6月20日)、徳川10代将軍家治が生まれました。8代将軍吉宗の孫で、田沼意次を重用したことで、いまも評価が分かれています。
元文2年(1737)、家治は9代将軍家重の子に生まれました。障害を持っていた家重に代わって、祖父の吉宗は家治に期待し、幼い頃から可愛がるとともに、将軍としてのあり方を伝えようとします。
まだ家治が幼い頃、手習いで「龍」の字を書いていたところ、あまりにのびのびと紙一杯に書いたため、最後の点を打つ場所がなくなりました。祖父の吉宗がどうするかと思っていると、家治は迷わずに堂々と畳の上に点を打ち、吉宗はこれを大いに褒めたといわれます。
武芸も好み、剣術は柳生久寿に、槍術は小南三十郎から学び、弓術、馬術にも熱心で、さらに鉄砲は的に百発百中させる名手でした。また祖父同様、鷹狩も好んだため、吉宗存命中はさぞ家治が将軍となることを楽しみにしたことでしょう。
宝暦10年(1760)、30歳の時に父・家重の隠居に伴って将軍に就任。家重は翌年、死去します。将軍に就任した家治は、老練の幕閣である老中・松平武元を招き、「余は父上の多病でやむなく将軍位についたが、未熟者ゆえ国政になじめない。今後、気がついたことがあれば何でも教えよ。また過ちがあれば遠慮なく戒めよ」と依頼しました。
また武元とともに、家治が重んじたのが、田沼意次です。これは父・家重の遺言に、自分が死んだ後も田沼意次を篤く用いるようにとあったからといいますが、おそらくそれだけではないでしょう。田沼は家重の小姓から御側御用取次へと昇進し、ついには一万石の大名にまでなっています。只者でないことは、家治も見抜いたことでしょう。
当時、祖父・吉宗のとった倹約による財源確保は、父・家重の代に農民一揆の多発というかたちで限界に来ており、抜本的な経済政策が求められていました。そこへ田沼の構想する重商主義政策を基本とした幕政改革は、新たな可能性を模索するものとして家治の目に映ったはずです。家治は、政治を松平武元と田沼意次の二人を軸にして推進し、武元の死後は田沼に委ねました。
田沼が「田沼政治」と呼ばれる政治を展開する中、家治は幕政に口を挟まず、趣味の将棋に没頭していたようです。この辺が家治暗君説の一つの根拠になるところですが、将軍自ら常に幕政改革の先頭に立つのが求められていたわけではありませんし、信頼する重臣に任せるのは普通に行なわれることです。
家治の不幸は(田沼の不幸でもあるのですが)、相次ぐ天変地異で改革が十分に実を結ばないまま、後世、田沼の悪評ばかりが前面に出たために、田沼を用いた家治も暗君に違いないとされてしまったことでしょう。
家治の人柄を示すエピソードとしては、後年、予定の起床時間よりも早く目が覚めてしまっても、周囲の者が目を覚まさないように、忍び足で座敷を歩き回っていたり、厠に行くにも、小納戸役が目を覚まさぬよう気配りし、そっと歩いたといわれます。
また愛妻家で、正室に男児が生まれなかったため、田沼が側室を持つことを勧めても拒み、将軍家の将来のためにどうしてもと田沼が言うと、「お前も側室を持つなら、わしも持とう」と納得したとか。
そして趣味の将棋は、玄人はだしであったらしく、将棋を好む点を見ても、頭の悪い人物であったとは考えにくいように思われます。
安永8年(1779)、世子の家基が18歳で急死したため、2年後に一橋家の豊千代を養嗣子としました。11代将軍家斉です。天明6年に脚気衝心で死去。享年50。その直後に、反対勢力によって田沼意次は失脚しました。家治についても、再評価する余地はあるのかもしれません。
更新:12月04日 00:05