2017年12月20日 公開
2022年03月15日 更新
正徳元年12月21日(1712年1月28日)、徳川家重が生まれました。第9代将軍で8代将軍徳川吉宗の息子。「小便公方」などと揶揄され、暗愚のイメージの強い家重ですが、実際はどうであったのでしょうか。
家重は正徳元年に紀州藩主・徳川吉宗の長男として、江戸赤坂の紀州藩邸に生まれました。幼名、長福丸。父・吉宗が将軍に就任するとともに江戸城に入り、享保10年(1725)に14歳で元服。しかし生来病弱で、また脳性麻痺と思われる障害があって言語が不明瞭でした。戦後、増上寺の改修の際に、徳川将軍家の墓の発掘・移転が行なわれましたが、その時の調査で家重は、非常に整った顔立ちながら奥歯が著しく磨耗していたことが記録されています。これは四六時中歯ぎしりをしていたためで、脳性麻痺の典型的な症状でした。また「小便公方」と揶揄されたのは、頻繁に尿意を催し、時に尿漏れしたからだといわれますが、これも排尿障害があったためと思われます。 若い頃から大奥に入って酒色に耽ったともいわれますが、身体の苦痛を酒で紛らわせていた可能性もあるでしょう。脳性麻痺で身体に障害があっても、知能は正常な人が多いのも事実なのです。
家重には4歳下の弟・宗武(田安家の祖)、9歳年下の弟・宗尹(むねただ、一橋家の祖)がいました。特に年の近い宗武が文武に秀でて闊達であっただけに、父親の吉宗も幕閣も、次期将軍をどうすべきか悩みます。老中・松平乗邑(のりさと)は宗武を次期将軍に推しますが、延享2年(1745)、吉宗は隠居して大御所となり、家重に将軍職を譲りました。家重、34歳の時のことです。それは諸事、家康の定めを重んじる吉宗が、祖法の長子相続を実践したというだけでなく、家重の嫡男・家治(後の10代将軍)が非常に聡明であったことも大きかったようです。
将軍就任後も、寛延4年(1751)に吉宗が没するまでの6年間は、吉宗が大御所として実権を握っていたため、実際の家重の政治はそれからでした。しかし父・吉宗の享保の改革の負の遺産ともいうべき、増税に反発する農民一揆や越訴が頻発し、統治は決して容易ではありません。これに対し、家重が重用したのが、若い頃から小姓を務めた側近の大岡忠光です。忠光は周囲で唯一、言語不明瞭な家重の言葉を理解することができました。家重は将軍就任後、すぐに忠光を上総国勝浦1万石の大名に取り立てています。
忠光は、吉宗に抜擢されて江戸南町奉行として活躍する大岡越前守忠相の縁戚でした。忠光はその後も家重に重用され、宝暦4年(1754)には若年寄、同6年(1756)には側用人と、異例の出世を遂げていきます。将軍の言葉を自分しか解さないとなれば、その者が邪まな考えを起こしてもおかしくないケースです。しかし、忠光は一切驕ったり、政治に口を挟むようなことはせず、自分の身の処し方を旗本から大名に出世した遠縁の大岡忠相に尋ねるなどして、誠実に務めました。そんな忠光を、当時のオランダ商館長イサーク・ティチングが次のように記しています。
「家重は大岡出雲守(忠光)という真実の友を持っていた。大岡出雲守は誠に寛大な人物で、他人の過失を咎めなかった。あらゆる点で大岡は上に挙げた吉宗お気に入りの3人の家来をお手本にしていた。それでその死後、次のような歌ができたのである。 大方は出雲のほかにかみはなし」
大方は大岡にかけてあり、出雲のような神はいない、つまり忠光のような立派な人物はいないと、庶民から尊敬され、感謝されていたことが窺えます。そんな人物を抜擢して、重用したのが家重でした。
また家重は、やはり小姓出身で、御側御用取次の役職から大名に取り立てて、やがて側用人に出世する田沼意次を見出しています。田沼は後世、「賄賂汚職」のイメージで語られますが、実際は経済面で革新的な見識を持つ有能な人物でした。宝暦10年(1760)、大岡忠光が49歳で没すると、直後に家重は将軍職を息子の家治に譲って隠居し、大御所と称しました。自分の言葉を解する忠光がいなくなれば、将軍の務めは果たせないと潔く身を引いたのでしょう。なお息子の家治に、田沼を重用するよう助言をしたといわれます。
そして翌年、家重は没しました。死因は尿路感染、尿毒症ではなかったかといわれます。享年51。暗愚なイメージで語られる家重ですが、特に人材登用においては非凡な鑑識眼を持っていたことが窺えるでしょう。なお、異説として家重は実は女性ではなかったかというものもありますが、ここでは触れません。
更新:11月22日 00:05