2017年06月24日 公開
2019年05月29日 更新
勝林寺にある田沼意次の墓(東京都豊島区)
天明8年6月24日(1788年7月27日)、田沼意次が没しました。幕府老中として重商主義政策を推進、20年に及ぶ田沼時代をもたらしたことで知られます。
田沼意次ほど、評価の分かれる老中も珍しいかもしれません。ある者は「賄賂と腐敗の権化」といい、またある者は「雄大かつ革新的な構想を持った政治家」といいます。はたしてどちらが真実に近いのでしょうか。意次は享保4年(1719)、幕臣・田沼意行の子に生まれます。意行は生え抜きの幕臣ではなく、紀州藩時代の吉宗の側近で、吉宗が将軍となるに及んで幕臣となった者でした。従って意次も頼るべき後ろ楯などは何もありませんでしたが、15歳の時に将軍吉宗に抜擢されて、世子・家重の小姓となります。
元文2年(1737)、19歳にして従五位下主殿頭となり、家重が9代将軍に就任するや、御小姓組番頭、側衆、御用取次と昇進、ついには相良1万石の大名に取り立てられました。家重の死後も10代将軍家治の側用人となり、幕府老中を兼務するに至ります。たとえるなら、若社長の遊び友達が秘書室長となり、さらに取締役に就任したようなもので、当時としても前代未聞のことでした。とはいえ単なる社長の引き立てだけでは、誰も納得しないはず。「田沼時代」といわれる時代を築くには、それだけの実力が必要です。
まずは働き者で、実務能力に優れていました。月のうち20日間は江戸城に泊り込んで仕事をこなし、たまに屋敷に帰っても来客の応対に明け暮れます。人を押しのけて目立とうとせず、むしろ他者を立てる聞き上手であったため、かえって周囲に人が集まりました。しかも理屈だけでは動かぬ世の中の道理もよくわきまえ、大奥にはつけ届けも忘れません。そんな意次が悪党呼ばわりされるのは、出世への妬みが半分、もう半分は彼が目指したものが、幕藩体制の根幹に関わる画期的なものであったからです。
8代将軍吉宗の享保の改革の後も、幕府の財政危機は続いていました。意次はこれを単なる財政問題とせず、米経済を基盤とする幕藩体制の欠陥ととらえ、商品経済を重視した政策転換が必要と考えました。そして商業の担い手となる商人を幕府の独占的支配下に置いて、外様大名が力をつけることを防ぎ、商人団を通じて全国市場を支配することで、将軍の専制権力を強めようとするのです。具体的には米以外の商品生産を奨励し、株仲間(同業者組合)を結成。また新田開発にも商人の資本を投入し(印旛沼、手賀沼の干拓など)、完成した暁には8割を商人に与える約束で資金を出させます。しかしこの政策では商人がさらに力をつける一方、旗本や大名など米に依存する者の生活はより困窮することとなり、意次への反感が強まりました。
一方、意次は海外貿易の道を広げ、貿易収支を黒字に転換。また北海道の116万町歩の開拓と7万人の移住計画を立案します。その背景には、仙台藩医・工藤平助が献上したロシアの脅威を説く『赤蝦夷風説考』があり、意次は国防の意味でも北方に目を向けていました。最上徳内をはじめとする蝦夷地調査団を送るのも意次です。なお意次は平賀源内とも親しく交わっていたことが知られています。
そんな意次にとって不運であったのは、数々の天変地異に見舞われたことでした。彼が老中に就任した明和9年(1772)は「メイワクナトシ」ともじられるほどで、江戸の大火に始まり、東北地方の旱魃、全国を縦断した台風、翌安永2年にはコレラの流行、安永7年(1778)には日向と京都で水害、三原山大噴火。そして天明3年(1783)には浅間山の爆発で関東一円が火山灰に覆われ、さらに冷害が5年も続き、天明の大飢饉をもたらします。それもこれも田沼が悪いからだと、天明4年には意次の息子で若年寄の意知が江戸城内で暗殺され、2年後、将軍家治が没すると、意次は老中を罷免されました。代わりに、意次を「盗賊同然」と罵る政敵・松平定信が老中首座となり、意次は所領没収の上、蟄居に処され、天明8年(1788)に没しました。享年70。
しかし、意次の没収された屋敷からは「塵一つ出ない」といわれるほど、財産は何もありませんでした。田沼時代は、経済面で時代が大きな曲がり角にさしかかっていたことは事実であり、むしろ意次はその変化に応えようとした政治家であったようにも思えます。
更新:11月23日 00:05