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真田幸貫~佐久間象山を登用した信濃松代の名君

2017年06月08日 公開
2022年03月15日 更新

6月8日 This Day in History

松代城

今日は何の日 嘉永5年6月8日

信濃松代藩8代藩主・真田幸貫が没

嘉永5年6月8日(1852年7月24日)、真田幸貫が没しました。信濃松代藩の8代藩主で「寛政の改革」の松平定信(楽翁)の次男。徳川吉宗の曾孫にあたる開明的な大名で、幕府老中を務めたことでも知られます。

寛政3年(1791)、時の老中・松平定信の次男に生まれた幸貫は、陸奥白河藩松平家で育ちました。父の定信は幕府の「寛政の改革」を主導する実力者でしたが、幸貫は父から学問や武芸を教わるとともに、天下の改革に挑むその背中を見ながら成長します。

25歳の時、後継者のなかった信濃松代藩7代藩主・真田幸専(ゆきたか)の養子に入りました。しかし、松平家からの養子入りは松代藩士の反感を買います。そもそも真田家は戦国時代、真田昌幸が上田城で二度も徳川軍を破った武功を誇りとしています。その真田家が、藩主に徳川の縁戚を迎えることは面白くない。そのことを、幸貫は敏感に察知していたのでしょう。彼は文政6年(1823)、33歳で藩主に就任する際、真田発祥の地である真田郷を訪れて、真田の祖霊を顕彰し、その尚武の家風を継承することを誓うのです。

その一方で、浪人に身をやつして領内を回り、領民の声に直接耳を傾け、藩の重役が知らない民情に精通しました。この浪人姿で歩くのは後に江戸でも行なっており、元来そうしたことを好む気さくな性格であったようです。

藩主就任後は藩内をまとめ、養蚕や製糸業に力を入れて藩財政の建て直しに取り組むとともに、窮民救済のための社倉の設置や、堤防の建設、新田開発を推進して生産力を向上させます。こうした改革手腕は、父・松平定信を見習った部分もあるのでしょう。

ただし幸貫の改革は、財政建て直しで終わりではありません。時あたかも幕府が「異国船打払い令」を発令、外国船が日本近海を脅かし始めていました。外国の脅威を前に、幸貫は軍備拡充に取り組みます。武門の家柄である真田の力を、海防に役立てようと決意したのです。大砲・小銃の鋳造、武芸の奨励を行ない、藩士たちに『武道初心集』を配布、質実剛健の気風を甦らせます。さらに人材登用も積極的に行ない、その中で抜擢されるのが佐久間象山でした。なかなか一筋縄ではいかない傲慢な象山ですが、「私が師と仰ぐのは幸貫公のみ」と終生語ったといわれます。

天保12年(1841)、51歳の幸貫はその見識を買われて外様大名ながら幕府老中に任ぜられ、「海防掛」という特命を与えられました。この時、幸貫が顧問に登用したのが象山です。幸貫は老中・水野忠邦に進言して、「異国船打払い令」を「薪水令」に改め、外国船が求めるならば薪や食糧を与えて帰すことにし、その一方で海岸に砲台を設置する硬軟両様の構えをとりました。さらに、幸貫の下で働く象山は西洋事情を研究して、海軍建設を唱える「海防八策」を、幸貫を通して水野忠邦に提出しています。

天保15年(1844)、幸貫は老中を辞しますが、幕府の海防政策に一定の成果を上げ、また佐久間象山を世に送り出したことは、維新に向けての大きな功績といえるでしょう。そしてペリー来航の前年にあたる嘉永5年、幸貫は没しました。享年62。幕末の動乱の主役たちにバトンタッチするかのような最期です。

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