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陸軍大将・今村均は、敵中に孤立したラバウルで、10万将兵の命を守るために何をしたか

2023年08月01日 公開
2023年08月03日 更新

岩井秀一郎《歴史研究者》

爆撃されるニューブリテン島のラバウル
爆撃されるニューブリテン島のラバウル(1944年3月)
出所:808 - G - 220342(National Archives)courtesy of the  Naval History & Heritage Command
 

かつて日本が敗戦した太平洋戦争(大東亜戦争)において、終戦まで「不敗」だった旧日本陸軍の名指揮官がいる。名は、今村均。陸軍大将である。

軍人として、指揮官としての責務を果たしつつも、時局や組織の論理に振り回されず、人としてあるべき姿を求め続けた指導者だった。

敗戦が色濃くなる中、敵中に孤立したニューブリテン島のラバウルで、司令官・今村均大将は、何を考え、どう行動し、10万人もの部下たちの命を守り抜こうとしたのか。

歴史研究者の岩井秀一郎氏は、「その指揮統率方法を通じてみえてくる姿が、今もって、日本人が目指すところの生き方の一つの指標であるように思えてならない」という。

経済敗戦の様相が色濃くなってきた令和日本において、この「今村均」という名将に、学ぶべきは限りない。

※本稿は岩井秀一郎著『今村均 敗戦日本の不敗の司令官』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。

 

「自給自足」が必要になることを見通していた今村大将

ラバウルのあるニューブリテン島は東京から5千キロ近い彼方にあり、現在はパプアニューギニアの領土を形成している。

この場所が攻略されたのは昭和17(1942)年の1月23日で、トラック諸島とにアメリカ軍を邀撃するための拠点、また西太平洋の制海権を確保する上での重要拠点とみられていた。海軍側で、この方面を担当するのは南東方面艦隊司令長官の草鹿任一(中将)である。 

今村が第八方面軍の司令官として着任する少し前、昭和十七年十月八日に第十一航空艦隊司令長官としてやってきた。草鹿は今村と共に終戦までラバウルの海軍側代表者としてとどまることになる。

ガダルカナル島(以下、ガ島)戦後、今村は今後の戦局を見通したラバウルおよび自分が担任する地域の防衛態勢について考えなければならなかった。今村が統括するのは司令部のラバウル(ニューブリテン島)があるビスマルク諸島ばかりでなく、東部ニューギニアにも及ぶ。当然、これらの島々の連絡は海空や電信による他なく、連合軍反攻の最前線に立たされる方面軍として、「補給」の問題は深刻だった。

今村は、昭和18年2月14日、ガ島撤収後に方面軍司令部の将校に対し、自分の経験を交えながら「自給自足」について語った。

「諸士も承知のように、中央は方面軍に対し、ガ島奪回攻撃の中止を命ずると同時に、 ラバウルを中心としニューギニアにわたる地域の要点を確保し、連合軍の北進を阻止 する新任務を課して来た。彼我の空中戦や、毎日の敵機の猛爆撃を見ている諸官は、 もはや制空権は、敵のほうに傾きかけてることを自覚されているだろう。だから早晩、 祖国からの輸送船が、軍需諸品をはこんで来ることは、出来なくなると覚悟すべきだ」

それでも方面軍司令部は兵士を飢えさせないようにしなければならない。そのために経理部は食料、獣医部は馬糧と蹄鉄、軍医部は薬と治療資材、兵器部は武器弾薬の現地補給を分担し、現地を視察して実行可能の具体案を作成して参謀長経由で提出せよ、と今村は命じたのである。

実は、今村の現地での自給自足計画は前年(昭和17年)の12月から始まっていた。この年の12月21日、経理部長の森田親三(主計少将)は軍医部長と共に今村から次のような要求を受けた。

「ガ島方面の今日までの戦況から判断するに、米海空軍の威力は予期以上のものがある。このままの情勢で推移するならば、ニューブリテン島方面の日本軍は、やがては南海の離島に孤立することになるかも知れない。私は今から最悪の事態に対処すべき万全の策を立てて置きたいと思う」

そして今村は現地住民(カナカ人)が何を食べているか、また日本人がそれを食べて生活していけるか調査研究してもらいたい、と述べたのである。「自給自足」といっても急に出来ることではない。それも、戦争の渦中であれば単に食糧だけというわけにはいかない。今村は、その必要性をまだ戦争の帰趨がわからない時点から考えていた。

 

海軍中将・草鹿任一長官との「わかり合っていた」関係

前述の通り、南太平洋における海軍側の責任者は南東方面艦隊司令長官の草鹿任一である。陸海軍は当然ながら指揮系統が異なり、ラバウルでも今村の方が年齢、階級ともに上であるにもかかわらず、立場としては並立していた。

加えて、草鹿はかなり気性が激しかった。陸海共同作戦の打ち合わせでは今村と侃侃諤諤の議論をし、その声は別の部屋にも響くほどだった。また、敗戦時に降伏文書に調印する際もオーストラリア軍が今村を日本軍全体の代表者として指名したにもかかわらず、「陸軍に海軍の降伏の権限を委すことはできない」と突っ張り、連名でサインした。

しかし、こうした両者の議論は私情が絡んだものではなく、後腐れはなかったようだ。特に、ラバウルでは陸軍七万人、海軍三万人しかも島嶼で持久戦となれば自然と様々な面で陸軍に教えを乞う必要もあり、草鹿としては海軍の立場が悪くなることも考えなければならなかったであろう。そのため、「海軍の立場」は常に強調する必要があったと思われる。

実際に、草鹿は回想の中で食糧の欠乏を来たした時、生産された食糧を今村が「極力均等に配分するようやかましく指令され、お蔭でわれわれは非常に助かった」と感謝している。

今村も草鹿も終戦後一時期までは同じ戦犯収容所にいたが、昭和21(1946)年7月に草鹿だけオーストラリアに送られることになった。その時、今村に二人きりで話がしたいと言われた草鹿は、運動場で次のような会話を交わしたという。

「今日までお互いに苦楽をともにして来て、今かような有様になってお別れするのはまことに残念です。あなたとは時に議論をしたこともあるが、あなたは得な性分で口角泡を飛ばしてやってもその次に会った時はケロリとして何もかも忘れた顔である。

ところが私は色々努力しても性格上どうしてもそうは行かぬのでつい失礼をしたこともあると思う。どうか悪しからずおゆるしください。これからあなたも何処へ行かれるか知れず随分御苦労なさることと思うが、決して短気を起こさず、御自重あって無事に帰国され、国家のために一層尽力されるよう祈ります。……僕は何だか悲しくなった……」

草鹿もこれを聞いて悲しくなり、しばらくして応答した。

《それはこちらからお詫び申し上げなければなりませぬ。私こそ生来の短気でつい先輩のあなたに対しても時々失礼なことを申し上げたりしまして、まことに相すみませんでした。しかしただ熱心の余りで、もとより他意のないことはあなたもよく御承知のことと存じますから、どうか悪しからずお許し下さるようお願いします。あなたもどうか御健康に御注意下されて、御無事御帰還のほどを祈ります》(草鹿任一『ラバウル戦線異状なし』)

今村と草鹿の連携は、衝突はしても心のそこではお互いをわかり合っていたといえよう。

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