小田原参陣前夜、政宗は弟・小次郎を愛する母・義姫に毒を盛られ、やむを得ず、小次郎とその傅役を殺害したとされる。ところが、それを記した伊達家正史と矛盾する史料や記録が残されている。一体、親子3人の間に、何があったのか。
母・義姫による伊達政宗毒殺未遂事件と、政宗による弟・小次郎殺害について、伊達家の正史『貞山公治家記録』(以下『治家記録』)には、次のようにある。
天正18年(1590)4月5日、会津黒川城にいた政宗は、義姫に小田原参陣の陣立ちの祝いに招かれ、膳に箸をつけたところ、たちまち具合が悪くなり、投薬を受けて一命をとりとめた。
小次郎に伊達家を継がせるために母が毒殺を図り、その背後には義姫の兄・最上義光の陰謀がある……。
そう感じ取った政宗は、母親を殺すわけにはいかず、4月7日、小次郎とその傅役・小原縫殿助を手討ちにする。その晩、義姫は実家の最上家へ逃げ帰った──。
『治家記録』は信憑性の高い歴史書であり、これが定説となってきた。しかし、政宗が死んでから約70年後の元禄16年(1703)に編纂されたもので、政宗の手紙などと照らし合わせると、矛盾する点が見つかった。
一つは、毒殺未遂事件の後も、政宗と義姫が手紙のやりとりをしていることである。
事件後に政宗から義姫にあてた手紙は7通が知られているが、実家に逃げ帰った母に、政宗が手紙を送ることは可能だったのだろうか。最上家が受け取りを拒否しなかったのだろうか。
もう一つは、いずれの手紙も親子の情愛が伝わってくる、非常にいい内容だということだ。
例えば、朝鮮出兵中に義姫にあてた手紙には、母から贈られた小遣いに対する感謝とともに、「ぜひ無事に日本にもどって、もう一度お会いしたい」と記されている。
「嫡男を毒殺しようとした母」と、「母が愛する弟を手にかけた嫡男」なのに、手紙からはわだかまりの気配が感じられないのである。
私は長らく疑問に思っていたが、今から23年前、これを解く鍵となる史料が発見された。
それは、政宗の師である虎哉和尚が、文禄3年(1594)11月27日に、京都にいた政宗の大叔父・大有和尚にあてた手紙である。
そこには「政宗の母堂が今月4日夜、最上に向かって出奔した」とある。
政宗は天正19年(1591)9月に米沢から国替えされ、当時は岩出山が居城であった。つまり義姫は、会津黒川城からではなく、その4年後に、岩出山から実家の山形に向かって出奔したことになる。
義姫が政宗と一緒に岩出山に移っていたのなら、その間、手紙をやりとりすることは当然可能で、一つ目の矛盾は解決される。
だが、2人が何ごともなかったかのように一緒に暮らし、手紙をやりとりしていたことについては、まだ疑問が残る。
ともあれ、『治家記録』にも誤りのあることがわかり、事件を見直す必要が出てきたのである。そして、驚くべき背景が見えてきた。
更新:11月23日 00:05