白石城三階櫓(宮城県白石市)
白石城は別名、益岡城、桝岡城。仙台藩の南の要衝に位置し、関ヶ原の戦いの後、明治維新までの260余年、伊達家の重臣片倉氏の居城であった。
生まれながらにして、ナンバー2の宿命を負わされる存在がある。それは、やがてナンバー1になる人間の、よくいう「ご学友」あるいは「遊び友達」として、少年時代のナンバー1につけられる人間のことだ。この存在は現代ではあまり見られなくなってしまったが、むかしは多かった。身分的には「主人と部下」になるが、質的には「遊び友達」であり、「学び友達」なのだ。極端な場合は、同じ屋根の下に起居を共にすることもある。
駿河国の人質となっていた徳川家康と鳥居元忠などはその典型だ。こういう観点で見てみると、同じ天下人といっても、織田信長や豊臣秀吉には、この「ご学友」や「遊び友達」がいなかった。そういう意味では、信長や秀吉のほうが、家康に比べて孤独だったといえるかも知れない。そういう孤独性は、彼らが天下人になったあとに展開するいろいろな仕事のやり方が、多少家康とは違っているひとつの原因になっている。これはこれで、ナンバー1の「人間性」をひも解くカギになるだろう。が、この際、そのことはおいておく。
戦国時代にナンバー1とナンバー2がご学友であったという典型的な例として、伊達政宗と片倉景綱を探ってみよう。
伊達政宗は、よく知られているように、子供のころは「はにかみ屋」だった。それは生まれつきそういう性格だったのか、あるいは、よくいわれるように独眼だったのでそれを気にして、人の顔色を見ていたのか、そこはよくわからない。両方が微妙にからみあっていたのだろう。
このはにかみ性というのは、戦国時代のナンバー1では武田信玄がやはり同じだったという。しかし、信玄は肉体的な支障があって、そういう性格になったのではなく、子供ながらにやや自己演出して芝居をしていたような気配がある。が、伊達政宗の場合は本物だった。
そのために、長男でありながら、彼を生んだ母親(最上義光の妹)がひどく政宗を嫌った。嫌っただけでなく、やがて夫の伊達輝宗にこういった。
「政宗は、伊達家の相続人としては、はにかみ性で気が弱すぎます。政宗より、弟のほうが相続人としてふさわしいと思います」
政宗の父輝宗は好人物ではあったが、やや好人物すぎて、多少決断力の鈍い点がある。これは、決断力が強すぎて、逆に部下の反感を買っていた武田信玄の父信虎とは対照的だ。
はやくいえば、輝宗は多少妻の尻に敷かれていたのではないか。だから、妻のこういう申し入れを、頭から否定するという態度をとらなかった。つまり、曖昧な対応をしたのである。このことが政宗の母にいよいよ自信を持たせて、発言力を強くした。勢い、伊達家の部下たちは真っ二つに割れ、「政宗派」と「政宗の弟派」に分かれてしまう。
そして、戦国の気風として、部下たちもやはり政宗のはにかみ性を嫌った。はにかみ性は、ほんとうは頭が良すぎ、また感受性が強くて、いつも他人の身になっていろいろなことを考えるから、
「こういうことをすれば、相手が傷つく」
ということを頭の中に置いている。そのために思い切った行動がとれない。
太宰治流にいえば、はにかみ性というのは「生まれてすみません」という感覚なのだ。
しかし、食うか食われるかの戦国時代で、戦国大名というのは、すぐれた経営者でなければならない。つまり、事業を展開する以上に、部下たちの生活を保証しなければならない。このころの大名はすべて、「部下を食わせるために生きていた」といっていいだろう。はにかみ性は、そういう経営能力をそぐ。人のことばかりおもんぱかっていたのでは、自分の利益を確保できない。下の者から見れば、非常に不安になる。
「こんな奴が大きくなって相続人になったら、果たしてわれわれの生活を保証できるのだろうか?」
という疑問が湧く。つまり、もらえる給料ももらえなくなり、あるいは家そのものもつぶれてしまうのではないかと心配するのだ。伊達政宗の少年時代は、そういう不安を持たせるのに十分だった。
そんな中で、たったひとりだけ政宗を支持している男がいた。それが片倉小十郎景綱だ。
片倉家は、武士の出ではない。政宗の父輝宗が片倉景綱を見出して、
「息子の遊び友達、学び友達になってくれ」
といったころ、景綱は米沢(山形県)の神社の神官のせがれだった。つまり、宮司の家に生まれたのである。片倉家は、もともとは信州(長野県)の出身だという。
伊達政宗が生まれたのは山形県の米沢城だから、地元の神社を管理している家に小十郎というたいへん利発な少年がいるという噂をきいたのだろう。
政宗は、片目になった自分の顔をたいへん醜いと思っていたらしいが、その目の手術をしたのも片倉景綱だったという説がある。目を病んで、どうにも手がつけられなくなったとき、政宗がわめいた。
「誰か、この目をえぐれ!」
しかし、部下たちは恐れて近寄らない。そのとき、片倉景綱だけが、
「わたくしがいたしましょう」
といって、小刀を抜き放ち、政宗の目をえぐり取ったと伝えられている。しかし、政宗にとって片倉景綱がナンバー2であったということは、こういうことだけではない。
生涯を通じて伊達政宗は、いまでいえばベンチャー企業家だったから、しばしば危機に陥った。そういうとき、いい知恵を出すだけでなく、政宗の心の支えになったのが片倉景綱である。ひとことでいえば、「強力な信頼感」があったのだ。ほんとうをいえば、ナンバー1とナンバー2の間には、この強力な信頼感が条件のはずである。しかし、見ていると、なかなかそうはいかない。ナンバー1とナンバー2が対立する場合もあるし、お互いに足を引っ張りあうこともある。つまり、ナンバー1とナンバー2という関係が緊張関係にある。それは、ナンバー1とナンバー2の拠って立つ基盤が違うからだ。はやくいえば、支持する勢力がまったく別で、その支持勢力そのものが対立しているということである。
その意味では、伊達政宗と片倉景綱の関係はそういう不安はまったくなかった。「一心同体」だったといっていいだろう。
片倉家は、明治維新で大名がなくなるまで、伊達藩では本城の仙台城のほか、たったひとつ認められていた白石城の城主だった。伊達家の重役陣はだいたい「一門」といって、伊達家と親族関係にある者が選ばれていたが、片倉家は伊達家の親族ではない。にもかかわらず、片倉家が最後まで伊達家の重要な城を任されていたということは、それだけ片倉家が伊達家にとって大切な存在だったということだろう。そして、その基礎は、政宗と景綱の時代に築かれていた。ということは、それだけ政宗の景綱に対する信頼が厚かったということである。
更新:12月10日 00:05