仙台城址に建つ伊達政宗像
子供のころ極度のはにかみ性だった伊達政宗が、突然自信を持ちはじめたのは、ある寺に行って、そこにあった不動明王の像を見てからだという。不動明王は、実に恐ろしい顔をしている。片目の伊達政宗がそんな恐ろしい顔をしていたわけではないが、彼はなぜかその不動明王に共通するものを感じた。いわば親近感を感じたのである。彼は、寺の僧にきいた。
「この像はなんというのですか?」
僧は、
「不動明王と申します」
と答えて、こうつけ加えた。
「不動明王は、ああいう恐ろしい表情をしておりますが、あれはこの世の不正義に対する怒りなのです。ですから、不動明王は、弱い人や正しい人の立場に立って、この世の悪を懲らしめるために、ああいう恐ろしい形相をしているのです」
このひとことで、政宗のその後の考え方は一変したという。つまり彼は、僧のことばをきいてこう思ったのだ。
(たとえ容貌は醜くても、人のために正義を実行すれば、その心は誰にも負けず清いし、正しいのだ)
この考えが、その後の彼を支える。そして、こういうときにおそらく一番喜んだのが、脇にいた片倉景綱であったろう。景綱だけが、このころの政宗にとってただひとりの支持者だったからである。ほかの部下たちがそろって政宗に白い目を向け、そのころの伊達家の実力者であった母に味方して、弟を相続人にしようという動きが活発だった。どちらかといえば、父は決断しないでその力に押されていた。そういう非常に不安定な立場にいる政宗は、生来のはにかみ性に加えて、より不安を募らせていただろう。
そうした中で、寺の僧が不動明王に関していったことばと、それを支持する片倉景綱の存在が、伊達政宗をどれほど力づけたかわからない。彼のガラリと変わった行動力は、この日をきっかけにして展開される。
伊達政宗は、今様にいえば「攻めのトップリーダー」である。しかし、いかに戦国の世とはいえ、攻めという積極性だけでは経営は成り立たない。その意味では、彼はふたりのナンバー2を持っていた。ひとりはいうまでもなく片倉景綱だが、もうひとりは一門の伊達成実である。伊達成実はどちらかといえば攻めのナンバー2だった。そこへいくと、片倉景綱は守りのナンバー2である。親戚だという気安さによる成実に対する信頼感と、子供のときからずっと一緒に育ってきた景綱に対する信頼感とは、おのずからその性格を異にしていた。しかし、片倉景綱は分をよく心得て、成実にも礼を尽くした。なんといっても成実は伊達家一門なのだ。自分はたかだか米沢の神社の宮司のせがれにすぎない。しかし、誰が見ても、片倉景綱のほうが実質的ナンバー2であることは明らかだった。
守りの得意な景綱が、それまで攻め一方だった伊達政宗が陥った危機を救ったことが二度ある。
更新:11月23日 00:05