寛永13年5月24日(1636年6月27日)、伊達政宗が他界しました。奥州の覇者、独眼竜の異名であまりにも有名な戦国武将です。
「仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。禮に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。氣長く心穏かにして、萬(よろず)に儉約を用いて金銭を備ふべし。儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。元來客の身なれば好き嫌いは申されまじ。今日の行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆の御暇(いとま)申すがよし」。
政宗の遺訓とされるものです。なかなかの名言ですが、しかし政宗自身は、そうあっさりと天下を諦めて、娑婆にいとまを告げようとは思っていなかったようです。
永禄10年(1567)、伊達輝宗の嫡男として米沢城に生まれた政宗は、幼い頃に患った疱瘡により右目を失い、コンプレックスを抱きますが、父・輝宗や師匠の虎哉宗乙、傅役の片倉小十郎景綱らの支援を得て成長しました。18歳で家督を相続するや武将としての頭角を現わし、19歳の天正13年(1585)には、人取橋の戦いで佐竹・蘆名らの連合軍を破って武名を奥州に轟かせます。さらに豊臣秀吉の陸奥・出羽の停戦命令を無視して、天正17年6月の摺上原の合戦で蘆名氏を滅ぼし、黒川城を奪取しました。10月には須賀川城も攻略し、まさに奥州の覇者と呼ぶにふさわしい存在となります。
しかし、もはや天下は秀吉の手に帰そうとしていました。その事を遅まきながら悟った政宗は、天正18年(1590)、小田原城を攻める秀吉のもとに参陣、「もう少し遅れたならば、その首は胴から離れておった」と秀吉に凄まれます。しかし政宗も、切腹を命じられるかもしれない状況下で、平然と千利休に茶を学びたいと申し入れるふてぶてしさを見せて、逆に秀吉から認められました。
翌年、蒲生氏郷とともに奥州の葛西・大崎一揆を鎮定しますが、実は陰で一揆を扇動していたのは政宗です。証拠の書状を押さえられた政宗は秀吉に呼び出され、糾問されますが、黄金の十字架を担いで現われるパフォーマンスと、その書状が偽者であることを示して、切り抜けます。 秀吉が死ぬと、早速秀吉の遺命を破って徳川家康の六男・忠輝と娘の五郎八姫を婚約させ、家康に接近します。関ケ原合戦では、東軍に味方することで家康より「百万石のお墨付き」を受け取りますが、上杉攻めよりも南部領で一揆を扇動することに力を入れていたことが発覚し、加増は4万石にとどまって、62万石となりました。
その後、慶長18年(1613)には家臣の支倉常長を宣教師とともにヨーロッパへ派遣し、航路開発や通商を求めますが、ヨーロッパの記録には「奥州王の伊達政宗はキリシタンを結集し、皇帝(家康)を倒して、自ら皇帝になる用意があると喧伝し、強く日西条約の締結を迫った」とあり、政宗の狙いは貿易とは別であったようです。
同年、家康は忠輝の顧問格である大久保長安に切腹を命じました。理由は長安が「キリシタンやポルトガル人と組んで、幕府転覆を図った」というものですが、かねて長安は「キリシタンを大いに広め、異国の軍隊を招き、松平忠輝を日本国王となす。われは関白」という文書まで記していたといわれますから、当時の空気がわかります。実際、政宗は大坂の陣後も支倉の帰還を待ちわびていました。そこには「江戸攻めは、伊達軍が陸より、スペイン艦隊が海より」という構想があり、政宗は支倉がスペイン艦隊とともに帰国することを期待していたのです。しかしそれも元和6年(1620)、支倉の帰国に際し、スペイン艦隊は同行しなかったことで、画餅に帰しました。時に政宗54歳。ここに天下への野望は幻と消えたのです。
寛永5年(1628)、政宗は江戸屋敷に将軍徳川秀忠を迎えました。政宗は自ら膳を運び、秀忠に勧めます。秀忠の側近が「毒見が済んでおらぬ」と言うと、政宗は「言葉を慎め。わしは政宗であるぞ。10年前ならいざ知らず、今は上様のお命を狙うつもりなど毛頭ないわ。その10年前でさえ、毒などという姑息な手段はとらず、合戦で臨む」と言ってのけ、側近は返す言葉もなく、傍らの秀忠は「いかにも伊達の親父らしい」と笑ったといいます。
更新:12月10日 00:05