小田原城
第一の危機は、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻撃していた時のことだ。
天下人になった豊臣秀吉は、自分に従わない者を片っ端から攻撃した。その最大の標的がふたりいた。ひとりは小田原の北条氏であり、もうひとりはいうまでもなく東北の伊達政宗である。そこで、頭の働く秀吉は、小田原の北条氏を攻めた時に、単に北条氏を攻めるのではなく、
「この際、一挙に伊達にも手を延ばしてやろう」
と考えた。そこで彼は全国の大名に命令した。
「小田原の北条攻めに参加せよ」
という命令である。この命令は、単に小田原城を攻撃しろということではない。もうひとつの意味は、
「大名としての独立心を捨てて、おれの部下になれ」
ということだ。つまり、小田原攻撃に参加することは、そのまま今後秀吉の忠義な部下になるという誓いを立てることになった。次々と全国から大名が小田原に駆けつけてきた。このとき、東北からも、津軽とか南部とか戸沢などという大名が率先して駆けつけた。しかし、このとき小田原に行かなかった東北の古い大名たちは、その後秀吉によって全部土地を取り上げられ、つぶされた。空気が緊迫してきた。伊達政宗は悩んだ。
「小田原に行くべきか、それともこのまま東北に残るべきか」
ということである。しかも彼は、このころ会津地方の支配者だった蘆名氏を攻撃して、その拠点であった会津黒川城を占領していた。つまり、秀吉から見れば、
「おれの天下統一を妨げる勝手な行動だ」
と思われるようなことをしていたのである。このころの政宗は領土拡大だけが至上命題で、彼は弱小企業をどんどん吸収していったのである。これがいちじるしく秀吉の癇にさわっていた。
政宗は、伊達成実と片倉景綱に相談した。
「どうしようか?」
成実はこう答えた。
「結論は出ております。小田原に行くのなら、もっとはやく行くべきでした。もう遅いと思います。いまお出かけになれば、秀吉様はきっとあなた様を殺すでしょう。それなら、ここで彼を待って一戦構えるべきです。そのほうが東北の雄としての伊達家の名を汚しません」
うなずきながら、政宗は片倉景綱を見た。
「おまえの意見は?」
このとき、片倉景綱は答えなかった。黙って、目を閉じていた。しかし、答えないからといって意見がないわけではない。彼は意見を持っていた。しかし、この場ではいいたくなかったのである。
その場は一応お開きにして、夜になると、伊達政宗は片倉景綱の家を訪ねた。そして、
「さっきは黙っていたようだが、意見があるのならいってくれ」
といった。片倉景綱は、そのとき部屋の中を飛び回るハエを追っていた。そして、ポツンとこんなことをいった。
「ハエというのは、追っても追ってもまとわりつきますなぁ。うるさいものでございます」
これをきいて政宗は、
「わかった」
とうなずいた。そして、
「あしたにでも、すぐ小田原に向かおう」
といった。景綱はニッコリ笑って平伏した。
「それがよろしゅうございます」
小田原に向かう政宗は、ほとんど部下をつれていかなかった。軍勢で向かったのではなく、わずかに数十人の部下を従えただけであった。先頭は、いうまでもなく片倉景綱である。政宗にすれば、自分が小田原に行くことは、小田原の北条氏を攻撃することよりも、自分が豊臣秀吉に屈伏したという態度を示せばそれでいいのだと考えていたからである。
このときの伊達政宗の態度が、まだ20代であったにもかかわらず、実に堂々としていて、「東北の山ザル」と馬鹿にしていた、ほかの大名たちの度肝を抜いた話は有名だ。彼はすでにひとかどの風流人でもあったから、茶道でもすぐれた才能を見せたし、また芸術に対する理解力も示した。秀吉は驚いて、以来すっかり政宗が気に入ってしまった。政宗と会った秀吉は、
「すぐ東北に戻れ。そして、おれの先陣を務めろ。ただし、おまえが勝手に占領した会津はやらないぞ」
といった。好意は好意、ケジメはケジメとはっきりさせるところが、秀吉の情と非情の管理の見事さである。彼は、単に人情深いだけではない。そうとうに非情な面もあった。しかし、いずれにしても、この小田原に行ったことによって、伊達政宗は第一の危機を脱出したのである。
もうひとつの危機は、東北に帰った伊達政宗が、そのまま引っ込んでいなかったことによって起こった。彼は、豊臣軍の代表として会津黒川に拠点を置いた蒲生氏郷をさんざん悩ませた。蒲生氏郷は、東北一帯に広がった一揆に苦しめられた。しかし、
「その一揆は、裏で伊達政宗が煽動している」
という噂があった。その証拠も発見された。怒った蒲生氏郷は、そのことを京都にいた豊臣秀吉に報告した。秀吉も怒って、伊達政宗と氏郷を京都に呼んだ。
氏郷は証拠として、伊達政宗が書いた一揆煽動の文書を提出した。こういうふうに証拠がそろっていては、いい逃れることはできまいと思ったのに、政宗は堂々といい抜けた。彼は、
「確かにその文書の文字はわたくしのに似ておりますが、判が違います」
といった。
「判が違うというのはどういうことだ?」
きき返す秀吉に、政宗はこう答えた。
「わたくしの判は、鳥のセキレイをかたどっております。そのセキレイの目に、小さな穴をあけております。お手元の判のセキレイには、目に穴があいておりましょうか?」
秀吉は目をこらして判をみたが、やがて「なるほど、穴がない」とつぶやいた。これによって、政宗は第二の危機を脱出した。しかしヒヤヒヤだった。この知恵は片倉景綱が前もって吹き込んだものだ。もちろん、秀吉が手にしていた文書は、伊達政宗が書いたものである。が、発見されたときのことを考えて、こういう手を打っていたのかも知れない。
しかし、一揆によっても豊臣秀吉軍を防げなかった伊達政宗は、以後、秀吉に仕え、さらにポスト秀吉になった徳川家康の忠節な部下大名に変わってゆく。これは時代の流れだ。
片倉景綱がナンバー2として偉かったのは、この〝時代の流れ〟をきちんと受け止めていたことである。
「この時代の流れの中で、伊達政宗が生き残っていくためにはどうすればいいか」
ということを、彼はいつも考えていた。政宗にしても、自分の性格をよく知っていたから、事に当たると、すぐ前へ出ようとする悪癖があることをわきまえていた。そしてそのたびに、
(それを止めてくれるのは景綱だ)
と思っていたのである。
いま、仙台に残っている伊達政宗の遺骨から鑑定すると、彼の血液型はB型だったという。B型というのは、一説によれば非常に躁と鬱の落差がはげしいそうだから、すぐカッとしただろうし、また衝動的に何か事を起こしてしまうという性癖があったに違いない。政宗は、典型的にそういうタイプの人間だった。それだけに、ナンバー1として彼は積極的な行動に出ながらも、常に、
(いま、こんなことをすると、失敗するのではないか)
という不安を持っていた。
それを止め、支えたのが片倉景綱である。その意味で片倉景綱は、伊達家をその後二百数十年の安泰に置いた、文字通り伊達政宗だけでなく伊達家そのものの強力なナンバー2であったといっていい。
※本稿は、童門冬二著『戦国武将に学ぶ 名補佐役の条件』より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月23日 00:05