李斯(西安市内にある二世皇帝胡亥陵公園にて)
秦王・政を支えた3人の臣下、李斯・韓非・尉繚。それぞれ優れた頭脳を持って王に献策をしたが、時には策略にはまり窮地に陥ることも。韓非の人生を狂わせた李斯の嫉妬とは? 歴史作家の島崎晋氏が解説する。
※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より内容を一部抜粋・編集したものです。
秦王政の性格を知るうえで、次の3人について触れておいたほうがよかろう。その3人とは李斯(りし)と韓非(かんぴ)と尉繚(うつりょう)である。
李斯は楚の上蔡(じょうさい)の出身である。若い頃、郡の小役人をつとめたことがあった。役所の便所に鼠がいて、汚物を食らい、人間や犬の近くではいつもびくびくしている。
しかし、蔵の中にいるときは、穀物を好きなだけ食らい、大きな屋根の下に住んで、人間や犬を恐れることもない。これを見た李斯はため息をついて言った。
「人間の賢と愚も、喩えれば鼠のようなものだ。そのいる場所によって決まるものなのだ」
それから李斯は荀子について帝王の術を学んだ。学業を終えると、李斯は誰に仕えればよいか考えた。楚王は仕えるに値せず、東方の六国はどこも弱体しており、功を立てる余地が見出せない。ならば西へ行って秦に仕えるしかない。そう決意するや、李斯は荀子に別れを告げ、秦に出かけた。
ときに秦では荘襄王(そうじょうおう)が亡くなったばかりだった。李斯はとりあえず呂不韋の舎人となり、やがて呂不韋の推薦を得て、政の近侍となった。
李斯はこれを機会に、政に献策をした。六国の合従を破り、各個撃破すべきであると。政は李斯を長史に任命し、その計画を実施させた。すなわち、密使を派遣して、買収できる者は買収し、誘いをはねつけた者は暗殺して、相手の国力が弱まったところを見計らって攻撃をしかけるということを繰り返したのである。
この作戦がうまくいったことから、政は李斯を客卿(かくけい)に取り立てた。
秦王政が韓出身の鄭国に築かせた水利施設「鄭国渠」
ときに韓から鄭国(ていこく)という者がきて、大がかりな灌漑工事をおこしたが、まもなくして、それが秦の国力を疲弊させるための謀略であることが発覚した。この事件をきっかけに、王族のあいだから、他国出身の役人をすべて追放する、逐客令(ちくかくれい)を出すべきとの意見が強く出された。
もちろん、追放者の名簿には李斯の名前も記されていた。そこで李斯はつぎのように進言した。
「昔、わが秦の穆公(ぼくこう)は由余(ゆうよ)を西方の戎(じゅう)から引き抜き、百里奚(ひゃくりけい)を宛(えん)の地で手に入れ、蹇叔(けんしゅく)を宋より迎え、邳豹(ひひょう)・公孫支(こうそんし)を晋から求めて臣とし、その結果、他国を二十余も併合し、西戎(せいじゅう)の地の覇者となりました。
孝公は衛の商鞅(しょうおう)の変法を採用して富強を図った結果、諸侯が服従し、今に至るまで秦はよく治まり強大なのです。恵王は魏出身である張儀の計略を採用して、六国の合従を解体させ、六国を秦に仕えるよう仕向けました。昭王は笵雎(はんしょ)を得て、秦の王室を強化しました。
この4人の君主の成功は、いずれも他国の客人たちの働きによるものであります。ですから、客人がどうして秦の不利益になりましょう。いま賓客を締め出しては、諸侯を利することになります。これでは敵兵に武器を貸し与え、盗人に食糧をやるのと同じであります」
政は李斯の進言をもっともとし、逐客令を撤廃し、李斯を原職に復帰させた。こののち李斯はさらに出世して、廷尉(ていい)にまで進んだ。
更新:11月21日 00:05