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日本史において、天皇はいかなる存在だったか【戦国~昭和編】

2019年05月27日 公開
2023年01月05日 更新

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

京都御所

天皇という存在を読み解く鍵は、激動の時代にこそあるのでは?
現在発売中の月刊誌『歴史街道』6月号では、『「天皇と日本史」の謎』という特集を組み、天皇が戦乱といかに向き合ったかを探っている。しかし、「天皇と日本史というと、少し難しそう…」という方のために、これだけは押さえておきたい天皇と日本史の関係について、歴史研究家の河合敦氏に解説していただこう。今回は、戦国時代から昭和の終戦ごろまでをご紹介します。

※本稿は、歴史街道2019年6月号特集『「天皇と日本史」の謎』より、一部を抜粋、編集したものです。

 

戦国から幕末へ…天皇の権威はどうなったか

応仁の乱後、衰退したかのように見える天皇家ですが、織田信長の時代に、存在感を見せます。

永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛した信長は、以降、朝倉氏、浅井氏、本願寺といった勢力と対立します。

その戦いの中、信長は朝倉・浅井、本願寺と講和するために、正親町天皇に仲介を要請しました。ようするに、天皇の権威を利用したのです。

一方で、信長は天皇家に口出しもしています。自身の猶子になっている誠仁親王に譲位するよう、正親町天皇に迫ったりしました。朝廷を自分の影響下に置こうとしたのでしょう。

しかし結局、信長はそれを実現する前に本能寺の変で滅びました。

その後に覇権を握った羽柴秀吉は当初、足利義昭の猶子になることで、征夷大将軍になろうとしました。しかし、義昭に拒否されたことで、政権の正統性を朝廷に求めます。 

朝廷の最高職である関白・太政大臣になった秀吉は、天皇から豊臣姓を賜わり、天皇の権威を背景として、政権運営をしていこうとするのです。

天皇の権威は、信長の時代からまた一段、高まったと言えるでしょう。

徳川家康が樹立した江戸幕府も、天皇なくして存在しえない政権でした。形式的とはいえ、朝廷が徳川家の当主を将軍に任じ、政治をゆだねるという形態がとられたからです。

そうすると、徳川家にとっても、天皇は尊い存在となるわけですが、それを外様大名などに政治利用されたら困ってしまう。

そのため、禁中並公家諸法度などの法令によって、天皇と朝廷の活動を規制するとともに、京都所司代を置いて、朝廷の動きを監視しました。

こうした圧力に対し、当然、反発する動きも出てきます。特に江戸時代初期の後水尾天皇は強く反発し、朝廷と幕府の関係が険悪になることもありました。

しかし後水尾以降は、強大な幕府政権に抵抗しようとする天皇は現われず、そのまま幕末を迎えることとなります。

幕末において、天皇という存在を人々に印象づけるきっかけとなったのは、嘉永6年(1853)のペリー来航でしょう。時の老中、阿部正弘が、孝明天皇にこの出来事を報告したからです。

ただ、外交上の重大事を朝廷に報告するのは、幕府がつくった慣例で、文化4年(1807)、ロシア軍艦の乱暴行為を天皇の求めに従って朝廷に報告したのが始まりでした。

その後、孝明天皇が日米修好通商条約への勅許を拒絶したことで、天皇の存在は強烈な光を放ちます。天皇を奉じて外国を駆逐しようという、尊王攘夷運動が巻き起こるのです。

その潮流は、やがて倒幕運動へと変化。さらに大政奉還、王政復古の大号令へと発展していきます。つまり、倒幕派が天皇の権威をうまく利用したと言えるでしょう。

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