2019年05月27日 公開
2023年01月05日 更新
幕末以来の天皇の権威の高まりもあって、慶応3年(1867)に発足した明治新政府は、天皇を政権の求心力としていきます。
政府の政治方針である五箇条の誓文も、明治天皇が百官を率いて神々に誓う形式をとりました。
また明治天皇を京都から江戸に移して東京とし、天皇に盛んに地方巡幸してもらうことで、人心をまとめようとします。
明治22年(1889)に制定された大日本帝国憲法は、天皇が定めて国民に与えるという、欽定形式がとられました。
その内容は、天皇が強大な権限を有するものですが、実態としては、行政権は内閣、立法権は議会、軍事は陸海軍が握っていて、現代の象徴天皇制に近いものでした。
ただ、天皇が発した教育勅語は、国民精神の基本理念として、日本中に浸透していくこととなりました。
大正時代に入ると、世界的な民族自決主義、自由主義の流れの中で、美濃部達吉の天皇機関説が主流となり、天皇の独裁は否定され、政党政治が行なわれるようになります。
ところが昭和になると、軍部が台頭します。それを受けて、天皇機関説は否定され、太平洋戦争へといたる中で、天皇は「現御神」と位置付けられるようになりました。
太平洋戦争は、最終的には昭和天皇の聖断によって、無条件降伏を受けいれるかたちで終息します。
戦後、アメリカは占領統治がスムーズにいくよう、昭和天皇の責任を問いませんでした。そして昭和21年(1946)、日本国憲法が制定され、象徴天皇制が明文化されます。
こうして天皇は、国民統合の象徴として現在にいたっているわけですが、一連の流れを見ると、実態としては、戦前から象徴天皇制だったといえるのではないでしょうか。
昭和天皇はもともと絶大な権力を持っていたわけではありません。権力を行使したのは、張作霖爆殺事件に際して、田中義一首相を叱責し、辞任を促した時くらいだとされています。
さらに長い日本の歴史で見ると、天皇が政治の実権を握っていた時期の方が少ないのです。
それでも、天皇が多くの国民に支持されているのは、武力によって国を統治してきたわけでなく、国の安定や豊作、民の安寧を祈る存在として存続し、権威を保ってきたからではないでしょうか。
もちろん、他にも様々な捉え方があるでしょう。「令和」という新たな時代を迎えた今こそ、改めて、天皇と日本史の関係について、考えてみる良い機会なのではないでしょうか。
更新:11月22日 00:05