なぜ、徳川家の重臣・石川数正は寝返ったのか? チャンスを迎えた秀吉の企み
なぜ、徳川家の重臣・石川数正は寝返ったのか? チャンスを迎えた秀吉の企み
小牧・長久手の戦いの後、旧武田領内の動揺をおさめるのに手を焼いていた家康。真田昌幸の裏切りと、それを助ける上杉景勝の登場によって、家康は上田城を諦める羽目に。 そして家康にさらなる試練が訪れる。徳川一...
歴史街道 » #河合敦の記事一覧
小牧・長久手の戦いの後、旧武田領内の動揺をおさめるのに手を焼いていた家康。真田昌幸の裏切りと、それを助ける上杉景勝の登場によって、家康は上田城を諦める羽目に。 そして家康にさらなる試練が訪れる。徳川一...
本能寺の変、羽柴秀吉は山崎合戦、清須会議、賤ヶ岳の戦いを経て、天下人として振る舞い始める。そんな秀吉に対して、織田信長の次男・信雄が不満を募らせ、徳川家康を頼るようになる。やがて両陣営は決戦へと至るが、は...
徳川家康は、織田信長に命じられ、妻・築山殿と息子・信康を処刑している。一体なぜ、信長はこのような命令を出したのか。歴史研究家の河合敦氏が、徳川家の一大事件について解説する。 ※本稿は、河合敦著『徳川家...
桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市) 徳川家康は、幼年より今川氏の人質として過ごしていた。そんな家康が、桶狭間合戦において今川義元が討ち死にした後、いかにして織田軍の攻勢から逃れ、大名として独立するに至っ...
大政奉還の舞台となった二条城(二の丸御殿) 大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、京都にいる一橋慶喜に仕えた。 その京都は、まさに政局の中心地であった。八月十八日の政変から鳥羽・伏見の戦い...
いよいよ2月14日から放送が始まる大河ドラマ「青天を衝け」。幕末維新で活躍した人物には武士が多いが、そんな中にあって、農家出身の主人公・渋沢栄一の経歴は異色といえる。 何が、栄一を「日本資本主義の父」へ...
アメリカ大統領選挙の動向を受け、日本、アメリカ、中国のこれからの関係に関心を持つ方は多いことだろう。実際、近現代史においても、日米中の三国関係は一様ではなく、時に接近し、時に対立するなど、時代とともに変化...
天災・戦争・恐慌……今回のコロナ禍以外にも、この国は様々な非常事態に直面してきた。月刊誌『歴史街道』2020年8月号の特集1では「『未曾有の危機』に立ち向かった日本人」と題し、日本人がいかにして困難...
天災・戦争・恐慌……今回のコロナ禍以外にも、この国は様々な非常事態に直面してきた。月刊誌『歴史街道』2020年8月号の特集1では「『未曾有の危機』に立ち向かった日本人」と題し、日本人がいかにして困難...
天災・戦争・恐慌……今回のコロナ禍以外にも、この国は様々な非常事態に直面してきた。月刊誌『歴史街道』2020年8月号の特集1では「『未曾有の危機』に立ち向かった日本人」と題し、日本人がいかにして困難...
日韓関係は戦後最悪といわれるが、そもそも有史以来、日本は朝鮮半島といかなる関係を築いてきたのだろうか。現在発売中の月刊誌「歴史街道」11月号では、「日本と朝鮮半島の2000年史」と題して、その実相に迫っている。...
脱隊諸士招魂碑(山口県山口市) 明治時代になって長州藩で続出した奇兵隊によるクーデター 文久3年(1863)6月、高杉晋作の呼びかけにより、長州藩で「奇兵隊」が産声をあげた。門閥・身分によらな...
天皇という存在を読み解く鍵は、激動の時代にこそあるのでは? 現在発売中の月刊誌『歴史街道』6月号では、『「天皇と日本史」の謎』という特集を組み、天皇が戦乱といかに向き合ったかを探っている。しかし、「天皇と...
天皇という存在を読み解く鍵は、激動の時代にこそあるのでは? 現在発売中の月刊誌『歴史街道』6月号では、『「天皇と日本史」の謎』という特集を組み、天皇が戦乱といかに向き合ったかを探っている。しかし、「天皇と...
殉国七士廟(愛知県西尾市) 東京裁判判決で死刑を執行された7名の軍人・政治家が祀られている。 遺骨は遺族に返還されず…… 平成10年(1998)に公開された伊藤俊也監督の作品『...
賀名生皇居跡(奈良県五條市) 約束を反故にされ、南朝の抵抗は続く…… 後醍醐天皇が京都を脱して、吉野に南朝をたててからおよそ60年後の明徳3年(1392)、南朝の後亀山天皇は、将軍足...
津田三蔵はなぜ、凶行に及んだのか? 明治24年(1891)5月、シベリア鉄道起工式に参列する途中で、ロシア皇太子ニコラス・アレクサンドロビッチ(のちのニコライ二世)は日本に立ち寄った。 この...
毛利輝元像(山口県萩市) 毛利輝元は大坂方に内通していた? いまの歴史は、残存している史料や遺物・遺構を調査・研究することで、学者によって明らかにされてきた事実が積み重なってできたもの。逆...
岡城址(大分県竹田市) 「臥牛城」「豊後竹田城」とも呼ばれる難攻不落の山城。大友氏に仕えた志賀親次は、ここで島津軍を撃退した。少年時代を竹田で過ごした瀧廉太郎は、岡城をイメージしながら中学校唱歌「荒城...
合戦の勝敗を握る「村上水軍」の迷い 厳島は、陸地から1.8キロメートル沖合に浮かぶ、南北10キロメートル、東西4キロメートルの小島である。周知のように、厳島神社が鎮座する信仰の島であり、良港をも...
三河武士団は、家康に心服していなかった! 武田信玄が侵攻してきた三方原の戦いで、いったいなぜ徳川家康は負けることを承知で浜松城から出撃したのだろうか―。 巷説では、同盟者の信長に対す...
写真撮影:永井浩 この歴史、知らなくてすみません。 日本各地には、教科書には載らなくても語り継ぐべき素晴らしい「歴史」があります。月刊誌「歴史街道」では、2016年8月号から2017年10月号まで...
文久2年(1862)1月、久坂玄瑞は長州・萩を訪れた坂本龍馬に対して次のように語りかけた。「藩の枠に囚われることなく、自分たち草莽の志士が起ち上がり、攘夷の義挙に出る以外に道はない」。すなわち、「...
更新:11月21日 00:05