文久2年(1862)1月、久坂玄瑞は長州・萩を訪れた坂本龍馬に対して次のように語りかけた。「藩の枠に囚われることなく、自分たち草莽の志士が起ち上がり、攘夷の義挙に出る以外に道はない」。すなわち、「草莽崛起」である。この時の玄瑞の言葉が、約2カ月後の龍馬の脱藩につながる訳だが、両雄が志を共有できたのは、2人が生まれ育った環境も大いに関係している。
「草莽崛起」を唱え始めたのは吉田松陰だが、背景には長州の「風土」があった。関ケ原合戦で敗れ、徳川に大幅に領土を削られた毛利家は、多くの武士が帰農しており、その点、他藩に比べて身分の壁が低かったといわれる。それゆえ、どんな出自であろうが、その人物が優秀であれば、然るべき役職に取り立てる――そんな風通しの良さが、長州には根付いていた。そうした中で、高杉晋作が組織した「奇兵隊」などが生まれた。
低い身分でありながら活躍した典型的な人物が、久坂玄瑞である。彼は医者の家の出であり、石高も少なかった。それでも若い頃から藩の様々な人物から目をかけられ、文久年間には京都での尊王攘夷活動を一手に担い、元治元年(1864)7月の禁門の変の際には家老の福原越後や、来島又兵衛と同じように長州軍を率いている。玄瑞は25歳であったのに対して、来島は48歳。2人は親子ほどに歳が離れていながら、同じ立場で禁門の変を戦ったのだ。
一方、坂本龍馬が育った土佐藩には、厳しい身分差があった。戦国時代、土佐は長宗我部家が治めていたが、関ケ原合戦後に入封した山内家は、長宗我部家の旧臣(地侍)を遠ざけて、譜代家臣を優遇した。そして、譜代家臣は「上士」、地侍は「下士」と峻別され、上士は下士をあからさまに見下すようになる。龍馬も「下士」であり、悔しい思いをしたことは一度や二度ではなかったはずで、山内家に対する忠誠心も薄かった。そんな境遇で育てばこそ、玄瑞の言葉が臓腑に染み、絶大な影響を受けたのだ。もしも龍馬が上士であれば、玄瑞の言葉に共鳴し、「挙国の海軍」を創設しようという思いには至らなかったかもしれない。
玄瑞と龍馬は、「列強の脅威から日本を守る」という、共通の志を抱いていた。しかし実は、期せずして互いのバックグラウンドも、両雄の「共鳴」の素地になっていたところにも、歴史の面白みがあるのではないだろうか。
更新:11月21日 00:05