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吉田松陰・全国周遊から得たものとは

2015年03月27日 公開
2022年06月15日 更新

桐原健真(金城学院大学准教授)

『歴史街道』2015年3月号<特集:松陰を育んだ男たち>より》

 

対局を見通し、日本を守る…

嘉永3年(1850)、萩を出て全国周遊を始めた松陰は、日本各地で多くの知識を獲得してゆく。
その過程で邂逅したのが、水戸学の大家・会沢正志斎と、松陰が唯一「吾が師」と語った佐久間象山であった。彼らと出会い教えを受けたことで、松陰は「『日本』を守る」との志を胸に抱く。

 

九州遊学で知った危機の実態

 過激な尊王攘夷論者――吉田松陰に対しては、しばしばこうした表現が与えられる。だが彼は、決して偏狭な原理主義者ではなかった。「幕末」という政治・外交をはじめとした情報の流通が厳しく制限されていた時代において、様々な人物との出会いを通じてぃ「西洋列強から『日本』を守るにはどうすればよいのか」「そのために自分は何を為すべきか」という命題を真摯に追い求めた男であった。

 松陰にとって大きな転機となったのが、嘉永3年(1850)、21歳の時から始まる諸国遊歴ある。       

 松陰はそれまで、生まれ育った萩城下から出たことがほとんどなかった。三角州に形作られた萩城下は山と海に囲まれており、さながら「陸の孤島」である。松陰はこの地で、幼少から山鹿流兵学をはじめとする学問を、いわば純粋培養的に修めつづけていた。しかし藩外留学での経験を通して、みずからが「井の中の蛙」であったことに気付くのである。以降、松陰は精力的に日本全国を旅し、多くの人物と交わり、自らの思想を形成していく。

 松陰がまず訪れたのが長崎である。出島に入港中の蘭船に乗艦する機会を得た彼は、西洋の技術力に圧倒されている。松陰はかつて藩に提出した意見書で「(敵艦が)鉅大なる程、吾が的になり易く大いに好む所」と述べていた。しかし、乗船した蘭船はあまりにも「鉅大」であり、加えて堅牢であった(なお、松陰が乗船したのは商船である)。松陰は計り知れない「西洋の衝撃(ウエスタンインパクト)」を受けたのである。

 長崎を後にした松陰が向かったのが、平戸である。松陰は平戸で藩家老の葉山佐内などに出会うとともに、多くの書物に触れた。そのなかでもっとも影響を受けたのが、清国人の魏源が著わした『聖武記附録』だ。魏源は、アヘン戦争(1840~42)で奮戦した林則徐と肝胆相照らす間柄であり、『聖武記附録」では敗戦の反省を込めてその実態を極めて克明に描き出している。魏源もまた、松陰に多くを教えた1人であった。

 「外夷(西洋列強)」の存在と脅威に関しては、松陰も萩で一定の知識は得ていた。しかし、「では、具体的にいかなる危機が迫っているのか」ということを初めてリアルに感じたのは、この平戸遊学においてであった。

 「異国が軍艦で攻めてきたならば、その軍艦を打払えばよい」――松陰を含む当時の知識人の多くは単純にそう考え、そのための方策を練った。しかし、平戸でアヘン戦争の実態を知った松陰は、外夷との戦いとは、単なる局地的な「戦闘」ではないことを悟る。

 アヘン戦争は、広州をその発火点としながらも、戦線は北へ北へと延びつづけ、上海はもとより、北京にほど近い天津にまで至っている。これは、単純計算で鹿児島南端から北海道最北端までが収まる距離だ。この事実は、西洋列強との戦いが、1つの藩の沿岸防禦で済むような局地戦ではなく、全面的な「戦争」となり得ることを示している。ここに松陰は仮想敵としての西洋列強の実像をはっきりと認識し、強烈な危機感を抱いたのである。

 

会沢との出会いで抱いた志

 とは言え、平戸遊学時点での松陰は、外夷の脅威を実感したものの、いまだ「『日本』を守る」という意識は希薄であった。なぜならば、近世日本では、「国」とは第一義的に「藩」を意味し、ましてや長州藩の山鹿流兵学師範である彼にとって、その守るべきものは、あくまで防長2力国であったからだ。

 では、松陰はいつ、「『日本』を守る」という志を立てたのだろうか。

 嘉永3年の九州遊学を皮切りに、嘉永5年(1852)までの2年間、松陰は日本全国を遊歴した。それは各地の海防の実情を視察するためであり、南は熊本、北は青森まで歩き、列島の「かたち」を体感したことで、彼はおのずと「日本」を意識したことであろう。

 もうひとつ、松陰の視野を大いに広げたものがある。それが、後期水戸学の大成者と言われる会沢正志斎との出会いである。

 松陰は九州遊学後の嘉永4年(1851)、参勤する藩主・毛利敬親に従って江戸へ出た。「江戸には長崎、平戸以上に貴重な書物があり、また多くの学者がいる」。そう期待に胸を膨らませていた松陰であったが、居並ぶ兵学者や儒学者の門を叩いたあげく、「江戸の地には師とすべきの人なし」と嘆くに至っている。江戸の学者にとって学問とは、日々の糧を得る手段に過ぎず、迫りくる脅威に対するためのものではなかったからである。松陰ほどに危機感に駆られている学者は、皆無であった。

 同年末、松陰は脱藩して東北へ向かう。その途上、立ち寄ったのが水戸であった。

 そもそも水戸学。淵源は17世紀半ばからの、水戸藩2代藩主・徳川光圀による「大日本史」編纂に始まる。この事業の過程で、「日本」という地理的・空間的存在は、「天皇」という歴史的・空間的存在に根拠付けられて把握されるようになっていく。こうした時空間を融合させた自己言及こそが、水戸学の思想的基盤であった。

 19世紀に入ると、水戸学は、攘夷思想と結び付き、新たな展開を見せ始める。大きな契機となったのが、文政7年(1824)に、水戸藩領の大津浜へイギリス捕鯨船員が上陸した事件である。そしてこの時、英国人を取り調べた人物こそ会沢正志斎であった。

 世界の果てとも思える大海原の太平洋を越えて捕鯨船が来航したという事実に強い衝撃を受けた会沢は、後に多くの志士の「バイブル」となる『新論』などを著わして、西洋の脅威に対して警鐘を鳴らした。会沢の理論を噛み砕けば、次のようにまとめることができよう。東方の君子国たる日本には、誇るべき歴史と伝統が息づき、その独立は天地無窮である。この神聖な事実を心に抱きつつ、日本を守っていかなければならない。今こそ幕府を中心に(=敬幕)天皇の下に結集して(=尊王)、異国の侵略を撥ね退けなければならない(=攘夷)――会沢は、「日本」を守ることの意義を強く論じ、やがてそれは「尊王攘夷」(「弘道館記」、天保9年〈1838〉)ということばに結実していく。こうした「日本」を語る言説に傾倒したのが、松陰であった。

 松陰は多くの水戸学者と交わったが、とりわけ会沢のもとに足しげく通った。嘉永4年12月末から翌5年1月の水戸への滞在期間中、東北旅行記『東北遊日記』によれば7度も会沢を訪ねたというから、その入れ込みようが窺えよう(ただし、そのうち1度は、会沢は留守であった)。後に友人の来原良三(蔵)に宛てた手紙のなかには、

 「会沢・豊田(天功)の諸子に踵りて、其の語る所を聴き、輙ち嘆じて曰く、『身、皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん』と』

 との一文がある。日本に生まれながら、日本が日本である根拠を知らなければ、どうして生きていけようか…。封建的分邦としての「藩」という枠組みを越えた「日本」という全体性を強く意識するに至った松陰は、日本を守る「攘夷」こそが、兵学者たるみずからの使命であるとする志を立てたのである。

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