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吉田松陰・全国周遊から得たものとは

2015年03月27日 公開
2022年06月15日 更新

桐原健真(金城学院大学准教授)

 

「吾が師」象山から得たもの

 松陰は、会沢との出会いで守るべき「日本」を発見した。しかし、「攘夷」の本当の意味を教えてくれたのは、彼が終生「吾が師」と慕った松代藩士・佐久間象山であった。

 象山は本来朱子学者であると同時に、蘭学者でもあった。しかし、松陰は象山のもとで、蘭学はもとより朱子学をも修めることはなかった。これには、彼が象山に師事したタイミングも大きく影響していよう。

 松陰が象山のもとで本格的に学び始めたのは、嘉永6年(1853)6月初旬のことである。実は松陰は、嘉永4年末の東北旅行の前に象山塾に入門しているが、この時は、必ずしも熱心には通っていなかった。その後、東北遊歴を経て嘉永5年に脱藩の罪で萩に帰国するが、その翌年に再び江戸へ遊学し、象山と運命の再会を果たすこととなる。

 これは折しも、米国東インド艦隊司令長官であるM・C・ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航した前後にあたる。恐れていた外夷がいよいよ眼前に現われた、まさにその瞬間であった。このときに臨んで求められるものは、現前の問題を打開しうる時局論であり、時間をかけて蘭学を修めるような「学問の時代」では、もはやなかったのである。

 前回の江戸留学において松陰が師事した山鹿素水を始めとする伝統的な兵学者たちは、米国との戦いについては沈黙を続けた。しかしそれは、日本を守ることに志を立てた松陰にとって、到底肯んずることができないものであった。叔父の玉木文之進に宛てて「素水が不学無術の佞人たる事は勿論衆目のみる所」などと語っている所以である。そうしたなかで、「西洋の知識や技術を導入し、列強に相対すべきだ」と敢然と唱えたのが象山であった。

 象山は、類まれと言うべき大局観を持つ男であった。そもそも松代藩主の真田幸貫が、天保改革期に老中として海防掛を務めた人物であった。その命を受けて、日本全体の海防を考究し続けた象山は、「海防八策」(天保13年〈1842〉)を藩主に提出している。彼は、最前線に立つ海防論者でもあった。

 こうした海防研究を経て、象山は1つの結論に辿りつく。日本が列強と伍するには、単に軍艦や大砲を西洋から購入すればよいというものではない。それをしっかりと使いこなせ、さらに造ることができる人間が必要である――合理的で、明治日本の「近代化」へとつながる思考だと言える。実際象山は、西洋の文物を輸入するだけでなく、みずから望遠鏡や写真機などを造る実践家でもあった。

 いかに日本を守るか、という問いへの答えを探していた松陰にとって、象山の考え方は大いに魅力的で、説得力を帯びたものであった。松陰は象山から日本とこれを取り巻く世界の現状を把握する方法――換言すれば「大局観」を学び取ったのである。

 象山・松陰師弟は、黒船来航に際して、唯々諾々と米国が要求する条約を結ぶべからざることを強く主張した。「必戦の覚悟」の必要性を説いたこの2人の真の意図については未だに議論が分かれるところだが、象山は主戦論を唱えることで、「戦争も厭わぬ覚悟で事に当たるべきであり、時局はそれほどに切迫しているのだ」と世に訴えようとしたことは間違いなく、松陰はその姿勢に共鳴したのだ。

 師弟にとって、戦争は「目的」ではなく「手段」であった。一戦をも辞さぬ態度で条約交渉に臨むことは、泰平の世に慣れてしまった日本人に覚醒をもたらすものとなると彼らは考えたのである。したがって彼らにとっての「攘夷」とは、単なる目先の「異物」を「撃攘う」ことではなかった。そこには、いかに日本の独立を成り立たしめるかという大局的な視座こそがあった。

 それゆえ、象山と松陰は、日米和親条約が締結され、戦争の可能性がなくなると「必戦の覚悟」を訴えることをやめてしまう。「和親」を結んだ以上、日本側から兵端を開くことは許されない。戦意を鼓舞し、太平楽の調べを乱すことは、もはやなんの意味もないのである。

 では、「いま、このとき」に、何が必要なのか…。この問いの果てに、嘉永7年(1854)3月、松陰は米国艦隊への密航を試みる。それは象山の勧めでもあった。これがいわゆる「下田踏海」である。

 「五大洲を周遊せんと欲す」――松陰は密航の約2週間前に認めた「投夷書」にこう記している。いまの日本に必要なのは、世界中をまわり、西洋の知識や技術をその身をもって学ぶことである…。この考えを実行に移した下田踏海は、象山の教えが結実したものの1つであったと言えよう。

   ※   ※   ※

 松陰は、長崎、平戸で攘うべき夷狄の脅威を実感し、会沢正志斎のもとで守るべき「日本」を発見し、佐久間象山との交わりのなかで攘夷の具体策と日本が進むべき道を見通す大局観を養い、そして実行に移した。結局のところ、この松陰の試みは失敗に終わり、国禁を犯した罪により幽囚の身となってしまうことは周知の通りである。

 とは言え、この幽囚の日々は松陰に幸いした。幕末政治の喧騒から隔離され、萩という本州西陬において、それぞれの師からの教えにいま一度じっくり向き合い、咀嚼する暇を松陰に与えたからだ。

 こうした思索の時間において、松陰は、地球規模の世界における日本のありようを、大局的な視座から深く考え続けた。こうした思考実験を行なう「余裕」の有無こそが、松陰と同時代の思想家・活動家たちとを分かつものであった。松陰が主宰した松下村塾に集った多くの若者たちは、まさにこうした大局観を師から学び、そしてやがて、師が果たし得なかった「『日本』を守る」という志の実現に奔走していくこととなる。(談)

 

桐原健真(きりはら・けんしん)金城学院大学准教授

昭和50年(1975)生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本思想史。東北大学助手などを経て、現職。
著書に『吉田松陰の思想と行動 幕末日本に置ける自他認識の転回』『吉田松陰一一「日本」を発見した思想家』など。


<掲載誌紹介>

歴史街道2015年3月号2015年3月号(菅野直と紫電改)

「ワレ菅野一番。全機、突撃セヨ!」。

部下にそう命じるや、真っ先に敵編隊に斬り込む指揮官機の紫電改。海軍第三四三航空隊戦闘三〇一飛行隊、通称「新選組」の隊長・菅野直大尉でした。海軍兵学校出身の士官ながら、指折りのエースとされる撃墜数を誇り、豪快で破天荒、理不尽には屈せぬ個性から、歴戦の部下たちに慕われた闘将です。昭和20年(1945)、本土を襲う敵の攻撃隊に、「日本にまだこれほどの精強部隊がいたのか」と畏怖させるほどの痛撃を与えた紫電改部隊の三四三空。その活躍の中心を担った菅野の、あくまで「指揮官先頭」を貫いた烈々たる闘魂が現代に語りかけるものを、初公開の写真などをまじえつつ探ります。

第二特集は、「吉田松陰を育んだ男たち」です。 

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