「太平記拾遺 四 大和大納言秀長」(部分、東京都立中央図書館蔵)
天下人となった豊臣秀吉だが、その偉業を成し遂げた背景には、弟・豊臣秀長の存在が不可欠であった。思うがまま自由奔放に生きた秀吉と、マジメで協調性のある弟・秀長。はたして彼らはどんな幼少期を過ごしたのか。そして、ふたりが強い信頼関係で結ばれた理由とは。親しみやすい文体で定評のある伝記作家が解説する。
※本稿は、真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部抜粋・編集したものです。
「我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候」
わが弟の小一郎と同じように心から信頼している─。
天正6(1578)年7月23日、織田信長のもとで豊臣秀吉が、播磨攻略を進めているときに書いた手紙の一節だ。
手紙を出した相手は小寺孝高。のちの黒田孝高つまり、黒田官兵衛である。
黒田官兵衛といえば、豊臣秀吉を天下統一へと導いた天才軍師として知られる。毛利攻めに協力していた官兵衛に対して、秀吉が改めて「心から信頼しているぞ」とメッセージを送ったわけだが、このときに引き合いに出された「小一郎」こそが、秀吉の弟・豊臣秀長である。
いかに秀長が秀吉に信頼されていたかが伝わってくるが、秀吉が弟の存在に触れたのは、この書状が初めてのこと。それまでの秀長の足取りについては、わかっていないことが多い。
豊臣秀長は天文9(1540)年、あるいは、天文10(1541)年に生まれたとされている。
幕末に編纂された『系図纂要』をもとにすれば天文9(1540)年が生年となるが、奈良興福寺の塔頭・多聞院の僧が書き継いだ『多聞院日記』によれば天文10(1541)年に秀長は生まれたことになる。
のちに秀長が重い病に伏せたときに、平癒を祈って天正18(1590)年10月に都状が出されている。そこに「秀長五十一」とあることから、数えで51歳だとすれば、天文9(1540)年が生年となる。
秀長は兄の秀吉と同じく、のちに「大政所」と呼ばれることになる「なか(俗名)」を、母として生まれた。だが、父親についてははっきりしていない。
秀吉と同じく木下弥右衛門の子か、それとも弥右衛門の死後になかが再婚したとされる竹阿弥(筑阿弥)の子か。
江戸時代の儒医・江村専斎の随筆『老人雑話』によると、天正11(1583)年の「賤ヶ岳の戦い」で、失態をおかした弟・秀長を、こう面罵したという。
「御身とわれは、種違ったり!」
ここから秀長の父は秀吉とは異なり、竹阿弥だったとする見方も強い。
もしそうであれば、母・なかの再婚相手である竹阿弥が、実子である秀長をかわいがり、秀吉は居心地の悪さを感じていたとしてもおかしくない。
現に秀長が物心をついた頃には、3歳年上の兄・秀吉は実家に寄りつかなくなっていた。一体、秀吉は何をしていたのだろうか。
豊臣秀吉は天文6(1537)年、尾張国愛知郡中村郷で、木下弥右衛門の長男として生まれた。
若い頃は「木下藤吉郎」と名乗ったが、ここではのちの名である「秀吉」で話を進めていこう。
17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素生記』によると、秀吉の父・弥右衛門は織田軍の鉄砲足軽だったが、戦場で負傷して百姓をしていたという。
だが、ポルトガル人によって鉄砲が伝来したのは天文12(1543)年で、その年に、弥右衛門が死亡していることを考えると、計算が合わない。鉄砲足軽ではなく、ただの足軽だったのかもしれない。
その一方で、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』や、ルイス・フロイスの『日本史』などでは、秀吉は貧しい百姓の子だったとされている。
秀長ほどではないにせよ、秀吉も幼少期の足取りがつかみにくい。「秀吉」という名前が文献に記されるのは、28歳以降のこと。それまでの秀吉の半生は、さまざまな説が入り乱れており、実像が定かではない。
28歳までは、あくまでも比較的信憑性の高そうな話をまとめることになるが、秀吉の人生を先に進めよう。
秀吉が父・弥右衛門を亡くしたのは、7歳のときだったという。同年に母のなかは竹阿弥と再婚したらしい。
幼い秀吉は光明寺へと修行に出されるが、いたずらがひどくて追い出されたという。そこからは半ば放浪生活となり、いくつかの職業を転々とする。だが、どれも長続きしなかった。
そんな息子を見かねた母は、15歳頃の秀吉に銭1貫目を渡して「これで身を立てなさい」と家から追い出したといわれている。
弟の秀長は、このとき12歳。日々農作業を手伝っているなかで、突然帰ってきてはまた出ていく兄・秀吉の背中をどんな気持ちで見つめていたのだろうか。
その後、秀吉は木綿針を売りながらなんとか生計を立てて、駿府の今川義元のもとを目指す。
とりあえず力のある戦国大名に自分を売り込もうと考えたのだ。
そして、今川義元の家臣である松下之綱に仕えたとされている。
だが、やっぱりここでも長続きはせずに、故郷へ帰っている。どうもすぐに投げ出してしまうところが秀吉にはあったようだが、このときは先輩や同僚からのいじめがあったとされている。馴染めない職場に早々と見切りをつけた決断は、その後の秀吉の人生をふまえれば正解だろう。
再び故郷でぶらぶらする秀吉。
『太閤素生記』の記述によると、そんなときに、地元の友人のツテで、織田信長に仕えることになった。
秀吉が「信長のもとで仕える」という選択をとったことで、秀長の人生も大きく変わることになる。もちろん、本人はそんな未来を想像すらしなかっただろう。
大言壮語を吐いて出ていっては、しばらくして戻ってきて、また野心を抱えて出ていく。
汗水たらして家業を手伝っていたであろう秀長からすれば、そんな兄に反発を覚えてもおかしくはない。だが、そもそも一緒に暮らしていないから、そんな気持ちにすらならなかったのが、実情だろう。
思うがまま自由奔放に生きて大人たちをも振り回す兄、マジメで協調性のある弟─。
そんな兄弟の違いは、織田信長と弟の信行にも見られた。
幼少期においては、荒々しい信長と比較しては、品行方正な信行のほうを周囲は褒めたともいわれている。その結果、織田家の家督を継いだのち、信長は信行を死に至らしめている。
貧しい生まれの秀吉と、織田家の嫡男として生まれた信長では家柄がまるで異なり、事情も全く異なる。だが、幼少期からともにする兄弟が、周囲から何かと比較されるのは今も昔も同じ。距離が近すぎるがゆえに確執が起きやすいことを思うと、秀吉と秀長のような距離感は、必ずしもマイナスだったともいえなさそうだ。
秀吉と秀長の関係はイメージとしては、兄弟というよりも、たまに合う親戚。例えば、従兄弟との関係に近かったのではないか。
思い浮かぶのは、幕末から明治・大正・昭和を駆け抜けた渋沢栄一と、従兄弟の尾高長七郎の関係だ。渋沢は先んじて江戸に出て、尊王攘夷活動に励む長七郎のことを尊敬し、その土産話を聞いては刺激を受けて、自分も尊王攘夷活動に傾倒することになる。
秀長もまた、行き詰まるとたまにふらっと帰ってくる兄の秀吉に対して、悪感情よりも好奇心が先だったことだろう。話半分に聞いても、秀長からしてみれば、兄の冒険譚は刺激的だったに違いない。
それでいて、あくまでも兄弟がゆえに、渋沢が従兄弟の長七郎に抱いたようなリスペクトには至らず、「俺も!」とまではならなかった。兄の行動にどこか呆れながらも「自分とは生き方が違う人だ」と距離感を持って、冷静に愉快な兄の存在を捉えられたのではないだろうか。
兄弟でありながら、幼少期をともに「過ごさなかった」、秀吉と秀長。そのことが、のちに2人を強固に結び付けることになる。
更新:01月10日 00:05