2014年01月05日 公開
2022年12月08日 更新
数多い軍師の中でも、抜群の手腕で天下に名を轟かせた男たちがいる。秀吉に参謀として仕え、天下人へと押し上げた竹中半兵衛と黒田官兵衛。伝説的な名軍師の活躍とは?
永禄7年(1568)、斎藤龍興に仕えていた頃、主君の稲葉山城を僅か17人の手勢で乗っ取るという離れ業をやってのけた。
半兵衛は日頃から物静かで、しかも細身で色白の優男であり、龍興はもとより他の家臣たちも侮っていた。ある日の下城の折、武勇自慢の斎藤飛騨守が櫓の上から嘲弄の声とともに小便の雨を降らせた。半兵衛は屈辱に耐え、怒りを抑えて汚れを拭う。嘲笑の渦だ。
それから数日を経た2月6日、斎藤飛騨守の宿直の日、半兵衛は人質として稲葉山城内にあった弟・久作の看病のためと称して十数人の家臣を城内へ送り込んだ。久作の病気は事前に打ち合わせでの仮l病であり、家臣が城内へ持ち込んだ長持には武器が忍ばせてある。
夕刻、ただ1人登城した半兵衛は久作の居室に入り武装を整えるや、家臣とともに宿直部屋を急襲して斎藤飛騨守をはじめとする番士を討ち取り、城を乗っ取ってしまったのである。
その後、舅の安藤守就とともに半年間にわたって占拠したものの、龍興の他の家臣の支持が得られず城を龍興に返却。謀叛の罪の責任を取るとして伊吹山の麓に隠棲した。そこへ秀吉が何度も足を運び、織田家に仕えてほしいと懇望して秀吉の与力になったのだった。
以後、秀吉の軍師としてその才を幾度となく発揮した。信長の浅井攻めの折は、浅井家の重臣で近江鎌羽城主の堀秀村、同宮部城主の宮部継潤を調略誘降。姉川の戦いでは秀吉に陣替を進言し、浅井軍の信長本陣への突入を阻止した。引き続いての中国攻めにも従軍して国人衆の調略を担当しかが、播磨三木城を攻囲中に持病の労咳が悪化し、36歳の短い生涯の幕を閉じた。
天正5年(1577)、羽柴秀吉が中国方面軍司令官として播磨へ進駐すると、姫路城を提供してその傘下に入り、類稀な外交手腕を発揮して播磨の国人衆を次々と調略した。
だが、好事魔多し。同6年(1578)、三木城を攻囲中に織田信長に叛した摂津有岡城の荒木村重の説得に赴き、逆に捕えられて幽閉されてしまう。
翌年に解放された後、秀吉のもとに復した。そして、その頃から秀吉の戦争哲学に変化が生じる。「三木の干殺し、鳥取の渇殺し、太刀も刀もいらず」「人を切ぬき申候事きらい申候」と述懐したように無血戦を志向するようになるのだ。
智略を好み、武力行使による流血と兵の損耗を極力回避しようとした官兵衛の影響を受けた結果である。兵糧米を買い占めた上で完全包囲して因幡鳥取城を陥落せしめた渇殺し作戦、長大な堤防を築いての備中高松城の水攻め作戦は、ともに官兵衛の献策によるものだった。
官兵衛の戦術思想はこの両作戦に如実に表われている。人命を損なわずに勝利を収める、すなわち武力行使は極力回避し、智略でもって敵を屈服させることを善の善なるものとする思想だ。古代中国の兵法書『孫子』は、「戦わずして勝つ」ことが理想であると説く。官兵衛の戦術思想はそれに相通じるものだった。
それだけではない。天正10年(1582)6月、本能寺の変が起こると、「これで筑前(秀吉)殿の御運も開けましたな」と、秀吉に天下取りの好機と進言。毛利一族との停戦交渉を取りまとめて畿内への急反転(中国大返し)を成功させ、山崎の戦いの勝利に貢献した。続く賤ヶ岳の戦いでは部隊長として参戦し、四国攻めと九州攻めでは軍監的役割を担い、秀吉を天下人の座に坐らせたのだった。
『孫子』の兵法の奥義を体得・実践した武将としては武田信玄、徳川家康らの名が挙げられるが、官兵衛もまた『孫子』兵法の体現者として評価すべき傑出した智謀の将である。
工藤章興
昭和23年(1948)、愛媛県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。新聞社、出版社勤務を経て執筆活動に入る。著書に『大谷吉継と石田三成』『反関ケ原』『兼続大戦配』などがある。
更新:11月22日 00:05