『歴史街道』2014年11月号[総力特集:官兵衛と関ヶ原より
大名間の領地をめぐる私戦は一切許さず、従わない者は天皇の名において討伐するのが、秀吉の命じた「天下惣無事」であった。しかし…。「秀吉様の大義名分はなにわの露と消えたのだ」。
官兵衛の言葉通り制約は崩れ、戦国の論理が蘇る中、天下分け目の決戦が迫る。官兵衛は九州で動いた。
慶長3年(1598)8月18日、不世出の英雄・豊臣秀吉が伏見城で没した。享年62。黒田官兵衛がそれを知ったのは、領国の豊前中津においてである。20日に第一報を受けた官兵衛は、24日に確報を得ると親しくしている吉川広家へ、
「自分は京で世間の様子を静観するつもりである」
と書き送った。かつて秀吉の名軍師として鳴らした官兵衛、ときに53歳。朝鮮の陣での不手際から秀吉の勘気をこうむり隠居謹慎し、秀吉の死によって完全に自分の時代は終わった――と、普通の人間であれば肩を落とすところだろう。
だが、官兵衛は違う。
「今いちど、腕をふるう時が来たわ」
その目は輝きを取り戻し、全身には生気が満ちあふれていた。広家への書状は「上方に兵乱起こらん事、かねて悟」っている、と続く。乱を予期した官兵衛は、大坂と備後の鞆と周防の上の関に早舟を待機させて、何か事が起これば即座に国元に連絡が来る仕組みを整えていた(『如水記』)。このおかげで、秀吉の死を遠く九州にいながら3日目に知る事もできたのだ。
12月、官兵衛は予定通り伏見の黒田屋敷に入る。すでに彼の耳には、豊臣五大老筆頭の徳川家康が、秀吉の死の直前に浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以・石田三成のいわゆる「五奉行」に対し、
「豊臣家臣同士で私に派閥を作りません。秀頼様が御成人されるまでは諸大名からの知行に関する訴えを取り次がず、自分が仮に加増されても辞退します」
と誓紙を出していたことが入っていた。
しかし、官兵衛は“そんな約束など何の保証にもならぬ”と醒めきった頭脳で考えている。事実、秀吉の死の直後に石田・増田・長束・前田の四奉行が毛利輝元に「世間がいかに乱れでも協力しよう」という誓紙を出させている(『毛利家文書』)。家康と親しい浅野長政を排除し、輝元ひとりと同盟を結ぶ内容は、明らかに「私に派閥を作らない」という秀吉の定めた法度に抵触していた。さらに、翌月の慶長4年(1559)1月9日には、薩摩の島津義弘・忠恒父子に対して朝鮮・滑川の大勝の功として五万石弱が加増された。これも、「知行は秀頼成人まで変更しない」という定めに背く。
そもそも、文禄の役、慶長の役と2度にわたって実施された朝鮮出兵は、莫大な戦費と多大な将兵の命を消費しただけで、何ら得るところなく秀吉の死によって終わった。戦後になっても論功行賞が行なわれなければ、大名と家臣たちは破産するしかない。だが、朝鮮で寸土も獲得できなかった豊臣政権には、現実問題として行賞を行なうことができなかった。「秀頼成人まで」はその言い訳である。
だが、問題を先送りすることはできない。島津への加増は、大老筆頭の家康が島津氏を手なずけようとしたのも確かだが、朝鮮での抜群の戦功をあげたMVPに恩賞を与えることによって、諸大名にも加増の期待を持たせガス抜きをするためでもあった。
戦国の主従は契約関係で成り立ち、主君が気に入らなければ家臣は牢人も辞さない。有能な武士には何度も主家を代える者もいた。恩賞の有無や額の多少が原因で牢人した者も、藤堂高虎や渡辺了など数多い。
秀吉様の大義名分はなにわの露と消えたのだ――伏見屋敷で目玉をギョロギョロさせながら、官兵衛は独りごちた。「天下惣無事」。大名間の領地をめぐる私戦は一切許さず、公儀への奉仕によってのみ本領を保証し恩賞を与える。これに従わない者は天皇の名において秀吉が討伐する、というロジックである。元々秀吉のアイデアではなく、織田信長や室町幕府も朝廷や天下のため、という名目で私戦停止を斡旋したり命じたりもしたし、家康も豊臣政権に組み込まれる以前、関東の大名へ「無事」こそ大事だ、と申し送ってもいる。
秀吉は、圧倒的な武力と財力を背景にこの「惣無事」を押しつけ、天下の統一と支配を正当化した。私戦を禁止するために必要な公的論功行賞も行なえなくなった時点でそれは崩壊したのだ、と官兵衛は考える。すでに諸大名は領地に飢えた狼となって動き出し、それは黒田家も例外ではなかったのだ。
更新:11月22日 00:05