↑項羽の故郷「項王故里」(江蘇省宿遷市)
大ヒット漫画『キングダム』を読み、秦王政、のちの始皇帝に興味を抱いたという方も多いだろう。彼の時代を知るための史料といえば『史記』があるが、その中には、始皇帝の死後に挙兵した項羽(こうう)について記されている。そこには、項羽が始皇帝を目の当たりにした時の驚きの言葉も書かれていた。
※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
↑項羽手植えの木
陳勝(ちん しょう)・呉広(ごこう)の乱が勢力を広げるにともない、各地で群雄が蜂起した。そのなかで大勢力に成長したのが項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)だった。
項羽は下相(かそう)の出身。挙兵したときは24歳だった。項氏は代々、楚の将軍となり、その恩賞として項の地に封じられた。ゆえに項氏を名乗るようになった。項羽は叔父の項梁(こうりょう)に育てられたが、項梁は王翦(おうせん)に殺された楚の将軍、項燕(こうえん)の子だった。
項羽は幼い頃、文字を習ったが覚えられず、やめて剣術を習った。しかし、これもものにならなかった。項梁が怒ると、項羽はこう言い返した。
「文字は姓名が書ければ十分で、剣術は一人の敵を相手にできるだけで、習うほどの値打ちがありません。わたしは万人を敵とする術を習いたいのです」
そこで項梁が兵法を教えたところ、項羽は大いに喜んだ。けれども、そのあらましを知ると、それ以上には学ぼうとしなかった。
その後、項梁が殺人事件を犯したことから、報復を避けるため一族そろって呉へ移住した。項梁は呉の名士たちから歓迎され、労役や葬式があったりするごとに、いつも元締めをまかされた。
始皇帝が巡遊して呉を通ったとき、項羽と項梁はそれをおのが目でみた。そのとき項羽が、「彼に取って代わりたいものだ」と言ったので、項梁は慌てて項羽の口をふさぎ、「みだりなことを言うものではない。一家皆殺しだぞ」と注意を与えた。そうは言いながら、項梁は項羽を頼もしくも感じていた。項羽は身の丈八尺余り、力はよく鼎を持ち上げ、才気は人にすぐれていたことから、呉の子弟はみな彼に一目を置いた。
秦の二世皇帝の元年7月、陳勝・呉広の乱がおきた。9月、会稽(かいけい)の守の殷通(いんつう)が項梁に誘いをかけてきた。
「江北の各地で反乱がおきている。秦が滅びるときがきたという天のお告げであろう。『先んずれば人を制し、後るれば人に制せられる』という言葉があるが、わしは兵をおこして、そなたと桓楚(かんそ)を将軍にしたいと思う」
すると項梁は、項羽なら桓楚の居場所を知っていると噓を言い、項羽を呼び入れるようすすめた。殷通が承諾して、項羽が中へ入る。項梁が目くばせすると同時に、項羽は剣を抜いて殷通の首を斬りおとした。たちまち役所の中は上を下への大騒ぎになるが、項羽が数十人を討ち殺したところ、一同みな恐れてひれ伏し、もはや誰も抵抗する者はなかった。
それから項梁は、顔なじみの豪傑や官吏たちを集め、大事をおこす理由をさとし、とうとう挙兵に踏み切った。近隣の諸県に呼びかけたところ、たちまち8000人の精兵を得ることができた。
項梁と項羽は戦いごとに勝利を収め、兵を増やしていった。襄城は激しく抵抗したので、そこを陥落させたとき、項羽は敵兵を全員穴に入れて殺した。
陳勝死亡の噂が届き、項梁と項羽が今後の作戦について話し合っていたとき、范増(はんぞう)という70歳の処士が来て進言した。
「陳勝が敗れたのは当然のことです。そもそも秦が六国に攻勢をしかけていたとき、もっとも消極的な姿勢だったのは楚なのに、秦は楚の懐王(かいおう)を捕らえて国へ帰しませんでした。楚の秦を怨む心はここから起こったもので、楚人が懐王を憐れむ心は今もつづいています。
ゆえに楚の南公は、『たとえ三戸になったとしても、秦を滅ぼすのは必ず楚人であろう』と言ったのです。それなのに陳勝は、楚王の子孫を立てずにみずから王位についてしまいました。だから、勢いがつづかなかったのです。いま、江東から兵をおこされ、各地の諸将が争って君に従っている。これは、君の家が代々、楚の将軍であり、楚王の子孫を立てるにちがいないと期待しているからです」
項梁は范増の進言をもっともと思い、楚の懐王の孫で、民間で羊飼いをしていた心(しん)という者を見つけ出し、擁立して楚の懐王と名のらせた。民の望むところに従ったのである。
↑項王故里の項羽像(江蘇省宿遷市)
更新:11月15日 00:05