2014年08月21日 公開
2022年11月14日 更新
黒田官兵衛がキリシタンであったことは、よく知られている。彼が入信したのは天正11年頃とされ、 毛利氏との領土画定問題や大坂城普請などに奔走していた時期だ。
※本稿は『歴史街道』2014年2月号より一部抜粋・編集したものです。
「受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。関白と山口の国主(毛利輝元)との間の和平は、この人物を通じて成立したのであり、彼は播磨の国に非常に多くの封禄を有している(中略)。
彼の心を動かしたのは海の総司令官アゴステイノ(小西行長)であり、飛騨蒲生(氏郷)殿とジュスト(高山右近)が彼を受洗へ導いたのであった。この貴人は小寺シメアン官兵衛殿と称した」(『完訳フロイス日本史』松田 毅一・川崎桃太訳)
黒田官兵衛がキリシタンであったことは、よく知られている。彼が入信したのは天正11年(1583)頃とされ、 毛利氏との領土画定問題や、大坂城普請などに奔走していた時期だ。大坂あたりで小西行長、蒲生氏郷、高山右近 らの誘いを受けたと考えれば、フロイスの記述とも合致する。
洗礼名は「ドン・シメオン」。「SimeonJosui」というローマ字印を用いた。シメオンとは、「聞く、耳を傾ける」という意味であり、「Josui」は出家後の号である如水をローマ字にしたものである。
ちなみに天正6年(1578)、官兵衛が荒木村重の説得のために単身、有岡城に赴いたのは、2人がキリシタン 同士であったからだという説が存在したが、官兵衛が入信するのはその5年後であり、また最近では荒木がキリシタンであったことが疑われている。2人に宗教的つながりはなかったろう。
官兵衛は家臣や領民に対し、キリスト教を熱心に勧めたという。彼がキリスト教の何に強く惹かれたのかはわからないが、あるいは有岡城での幽閉体験が影響していたのかもしれない。
天正15年(1578)には息子の長政と弟の直之も洗礼を受けた。ところが同年、秀吉が突如「バテレン追放令」を発布。官兵衛は直ちに棄教したといわれる。
しかし、実際のところはわからない。 江戸時代に書かれた『黒田家譜』などには、幕府に対して都合の悪い部分は記さないはずだからだ。官兵衛はキリシ タン大名の小西行長の遺臣らを保護し、 また遺言では、博多の教会への寄付を命じている。さらに弟の直之は生涯、ついにキリシタンで通した。
もし官兵衛がキリスト教信仰を続けていたのだとしたら、どんな教えを重んじていたのだろうか。官兵衛の人物像を探る上で、大きなテーマとなるのかもしれない。
更新:11月23日 00:05