現在発売中の月刊誌『歴史街道』4月号で、直木賞作家の安部龍太郎氏は、世界史の波が、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の動向に大きな影響を及ぼしていたと語る。そのうちの一人、信長が描いた世界戦略とは――。
「世界史」の視点をまじえて戦国時代を語ることに、いったい何の意味があるのか。
そういぶかる声も、あるかもしれない。たしかに、日本各地で激しい勢力争いが繰り広げられた戦国時代は一見、日本史の中で完結するものに見える。
しかし戦国時代こそ、「世界史」を抜きに語ることはできない。戦国時代は大航海時代という世界史の波が日本に及んだ時期であり、それが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の動向に、大きな影響を及ぼしていたからである。
そもそも、日本と西洋との出会いは、天文12年(1543)の鉄砲伝来と、天文18年(1549)のキリスト教伝来に始まる。
当時、世界は大航海時代であり、とりわけスペイン、ポルトガルは積極的に植民地獲得へ乗り出していた。
その流れに乗って、最初に日本にキリスト教をもたらしたのは、ポルトガルを後ろ盾とするイエズス会の宣教師であった。彼らは九州・中国地方を中心に布教活動を展開し、やがて、13代将軍・足利義輝から畿内での布教も許される。
信長が宣教師のルイス・フロイスに会ったのは、永禄12年(1569)のことだった。その前年、信長は15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛しており、まさに天下布武の実現に邁進している時期である。
イエズス会の宣教師は、ポルトガルの外交官兼商社マンのような存在であり、知的エリートたちであった。
信長は彼らを通じて、東アジアで貿易を展開するポルトガルの存在、さらに西洋文明のことを知る。貿易品や、「地球は丸い」といった科学的知識にも触れ、大いに視野を広げたに違いない。
世界には己の知らない文物があり、これをもってすれば、天下布武への軍備を強化するだけでなく、交易によって国を豊かにすることができる……。そう考えた信長は貿易港である堺を押さえ、ポルトガルとの交易に着手する。
しかし、ポルトガルと交易するには、ポルトガル政府の許可が必要となる。それは、イエズス会を通じて交渉しなければならない。
かくしてイエズス会と関係を築いた信長だが、この関係は、両者にとって都合がよかった。
信長は、海外から輸入される生糸を国内で売ることで経済的利益を得るだけでなく、火薬の原料となる硝石、弾丸となる鉛といった軍事物資を手にすることができた。
一方、イエズス会は、ポルトガルとの関係を重視する信長から、京都在住や教会建設を認められ、その庇護下で布教活動をすることができたのである。
もっとも、こうしたキリスト教への優遇措置は、貿易による利益を得るためだけではなかった。信長は、仏教勢力に対抗するうえでも有効であると踏んだと思われる。
信長が敵対する大名には、朝倉氏や武田氏のように仏教勢力と結ぶ者もあり、天下布武のためには、その力を削いでいく必要があった。
また、一向一揆を擁する石山本願寺の力は強く、ここに風穴を開けたかったのではないか。その狙いは決して外れていたわけではなく、一向宗からキリスト教に転宗する者も多かったようだ。
それ以外にも、信長は家臣団の統制にキリスト教が使えると考えていたと思われる。
戦国時代において、主従関係は強固なものではなかった。毛利元就が用いた傘連判という円形の署名は、その表われといえる。誰かがトップになったとしても、それはあくまで同盟関係から生まれたもので、本当は対等だとする思想だ。
しかし、こうした水平型の組織では、いざという時に命令が実行されない恐れがある。それゆえ信長は、垂直型の主従関係へと変えていこうとし、その参考となったのが、イエズス会の組織編成だと考えられる。
イエズス会は十字軍の流れを汲んでおり、軍隊的なピラミッド型の組織編成をしていた。信長はそれを取り入れようともしたのだろう。
更新:11月21日 00:05