信長が順調に版図を拡大していた天正8年(1580)、西洋で大きな動きが出てくる。
スペインによる、ポルトガル併合である。この時、イエズス会から派遣されてきたのが、ヴァリニャーノだ。
ポルトガルという後ろ盾を失ったイエズス会は、存亡の危機に陥り、新たにスペインとの関係を深めることで活路を開こうとする。そこでまずは、スペインと信長を仲介しようとしたのである。
信長にしても、貿易のうまみを知っているから、スペインと親交を結びたいと考えていたはずだ。
信長と面会することになったヴァリニャーノは、天正9年(1581)、京都で行なわれた天皇臨席の馬揃えに招かれ、主賓といっていい待遇を受ける。これは、己の力を見せつけることで交渉を有利に運ぼうとする、信長の深謀遠慮であった。
その後、両者は舞台を安土に変え、交渉に臨む。ヴァリニャーノは5カ月近く安土に滞在するが、その間、どのような交渉が行なわれたかは日本側の史料に残っていない。
しかし、信長がイエズス会と訣別したことは間違いない。その直後、安土城内の摠見寺に自分を神として祀らせ、家臣や領民に参拝させていることでも、それが分かる。これは、キリシタン勢力と手を切ったことを、天下に知らしめるに等しい。
では、そうした信長の決断をもたらしたものは何か。それはイエズス会が提示した、スペインの要求にあったのではないか。その要求とは、「明国を征服するための出兵」であろう。
ポルトガルを併合し、世界中に植民地を得たスペインは、「太陽の沈まぬ国」となっていた。
もともと、1494年に結ばれたトルデシリャス条約によって、スペインとポルトガルの勢力圏を東西に分けることが決められていた。それが、ポルトガルを併合することで、スペインは世界帝国となったのである。
スペインが次に征服したいのは、日本の隣国である明国だった。だが、スペイン本国から遠方にある明国まで大量の兵を送るのは難しい。そこで、その肩代わりを日本に求めたのだろう。
その根拠は、天正10年(1582)、ヴァリニャーノがマニラのスペイン総督に送った手紙にある。そこには、将兵の強い日本を征服するのは難しいが、明国征服事業に役立つだろう、という趣旨が記されているのだ。
ともあれ、信長はスペインの要求をはねのけた。たとえそれによって、スペインとの貿易が失われようとも、今度は日本の水軍をもって海外へ乗り出し、自らの手で貿易をやっていこうと構想していたからに違いない。
国内で信長と互角に戦える勢力は、もう存在しなくなっていた。今すぐにはできずとも、やがて天下を統一したあかつきには、毛利家が独占している石見銀山を手に入れて、銀を輸出することを考えていただろう。そうすれば、当時の世界通貨は銀だから、売り手として大きな利益を上げ、それを元手にさらに貿易を拡大できる。
それまで、日本にとって未知の世界であった西洋の文物に触れた信長は、やがて自ら、海外戦略を構想するに至ったのである。
しかし天正10年、本能寺の変により、その夢は潰えてしまう。
更新:11月22日 00:05