雑誌『歴史街道』2019年4月号で、歴史家の平山優氏は、世界史の波が武田氏と北条氏の滅亡に与えた影響について論じている。しかしそもそも、武田氏が織田・徳川連合軍に敗れた長篠合戦について、誤解があるという。それはどういうことなのか。
戦国時代の合戦について、次のように言われることがある。
武田勝頼は、鉄炮の重要性を認識せずに、長篠合戦で織田信長に敗れた。
北条氏政・氏直父子は、自らの力を過信して、小田原合戦で豊臣秀吉に敗れた──。
ようするに、武田氏と北条氏は「時代の流れを読めずに滅びた」というのだ。
しかし、そうした見方は一面的に過ぎる。奇しくも、敗れたのは武田氏、北条氏という東国の二大国であり、勝利をおさめたのは織田氏、豊臣氏という畿内・西日本勢力なわけだが、そこには少なからず、世界史の影響が見て取れるのだ。 そもそも長篠合戦は、「新戦法対旧戦法」という図式で語られることが多い。
3000挺の鉄炮で三段撃ちさせた信長=「先見性に富む軍事的天才」、騎馬隊で挑んだ勝頼=「保守的な愚者」とする見方だ。
しかし、勝頼が鉄炮を軽視したというのは、全くの誤りである。
武田氏は、東国では最も早い段階で鉄炮を導入している。弘治元年(1555)の第2次川中島の戦いでは、300挺から成る鉄炮衆を派遣している。
さらに、装備の割合で見ても、決して低いわけではない。
武田氏は家臣に鉄炮の装備を積極的に促しており、軍役定書という軍備に関する命令から計算すると、軍役員総数に対して、鉄炮の割合は約10.7パーセントとなり、弓の割合とほぼ同じとなる。
ちなみに、上杉氏の鉄炮の割合は、約5.7パーセントである。
だが意外なことに、信長と鉄炮の関係性を示す文書は武田氏と比べて少なく、鉄炮の割合はわからない。
しかし長篠では、兵3万5千、鉄炮3000挺、さらに酒井忠次率いる別働隊に鉄炮500挺を預けたとされるので、その割合はほぼ10パーセントと見ていいだろう。
つまり、分母こそ異なるものの、割合で見ると、武田氏と織田氏はほぼ同率となる。
なお、長篠城をめぐる戦いでは、武田方の鉄炮による城壁の損傷が激しかったとされ、勝頼も少なからず鉄炮を用意していたと考えられる。勝頼は決して、鉄炮を軽視してはいなかったのだ。
では、編制方法についてはどうだろうか。武田氏には直轄する旗本鉄炮衆があったが、それだけではなかった。
合戦の都度、従軍を命じられていない家臣に、鉄炮や鉄炮足軽だけの提供を求め、戦場では引き連れた鉄炮衆とを合わせて、臨時編制するという方法をとっていたのである。
一方、信長はというと、『信長公記』によれば、長篠合戦においては少なくとも500挺の鉄炮旗本衆を持ち、それを酒井忠次に預けていたという。となると、決戦場の3000挺はどのようにして集めたのか。
決戦の直前、信長は参陣していない細川藤孝や筒井順慶に、銃兵と火薬(玉薬)を至急提供するよう求めている。両者は計150挺を長篠に送っており、おそらく他の家臣も、同様のことをしただろう。
つまり勝頼も信長も、旗本鉄炮衆を持つ一方で、臨時に鉄炮を集めていたのである。こうした臨時編制は「諸手抜」といい、徳川氏や毛利氏でも行なわれていた。
割合も編制方法も変わらないとなれば、戦い方が違ったのであろうか。
鉄炮が伝来する以前、戦国時代の合戦は次のように行なわれた。
まず緒戦に矢を撃ち合い、やがて接近すると鑓による戦闘へと移る。そして敵が崩れ始めると、騎馬衆が敵陣に突入して敵陣を混乱させ、最終的に敵を攻め崩す……。
鉄炮伝来後は、緒戦に鉄炮と矢を撃ち合うようになったが、矢が鉄炮に変わったり、矢と鉄炮を一緒に撃つようになったくらいであった。
鉄炮が戦場で威力を発揮したことは間違いないが、その登場によって、戦い方自体が劇的に変わったわけではない。
武田氏に関する史料『甲陽軍鑑』や、『信長公記』を見ても、武田氏や織田氏も同じような戦闘事例が散見され、長篠でもおおむね、そのような戦いが展開されたと考えられる。
さらに言えば、兵農未分離だった武田軍に対して、兵農分離を実現した織田軍は先駆的だった、ということがよく言われる。
しかし実は、織田軍が兵農分離を実現していたと立証する研究は現在にいたるまでない。
つまるところ、勝頼と信長が率いた軍隊は同質といってよく、長篠の戦いは「新戦法対旧戦法」ではなかったのだ。
更新:12月04日 00:05