武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の瞬間とは
武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の瞬間とは
2021年は武田信玄生誕500年。戦国武田家の歴史を再検証する動きが多くみられるが、この記事では武田家が滅亡した瞬間について取り上げたい。日本を代表する戦国武田氏の研究者が、木曾義昌や穴山梅雪に裏切られて窮地に追...
歴史街道 » #武田勝頼の記事一覧
2021年は武田信玄生誕500年。戦国武田家の歴史を再検証する動きが多くみられるが、この記事では武田家が滅亡した瞬間について取り上げたい。日本を代表する戦国武田氏の研究者が、木曾義昌や穴山梅雪に裏切られて窮地に追...
武田勝頼率いる武田軍が織田軍に大敗した長篠の合戦――その構図は、旧式の騎馬軍団が先進的な鉄炮隊に敗れ去ったというのが常識的な理解だった。しかし、近年の研究でその常識は根底から崩れつつある。 ※本稿は、平...
武田信虎・信玄・勝頼の戦国武田三代には、強烈な源氏意識があったという。その源氏名門としての誇りと、足利将軍家への絶対的な忠誠を行動原理にして、武田家は織田信長との戦いに身を投じていくことになる――。 ※...
雑誌『歴史街道』2019年4月号で、歴史家の平山優氏は、世界史の波が武田氏と北条氏の滅亡に与えた影響について論じている。しかしそもそも、武田氏が織田・徳川連合軍に敗れた長篠合戦について、誤解があるという。それは...
武田家と真田家。天文15年(1546)頃に武田信玄のもとへ真田幸綱が出仕して以来、ともに乱世を歩んできた両家だが、織田信長の侵攻とともに、別々の道を歩むこととなる。 天正10年(1582)3月3日、真田昌幸による...
今日は何の日 天正3年5月21日 馬場信春、長篠設楽原の戦いで討死 天正3年5月21日(1575年6月29日)、長篠設楽原の戦いが行なわれ、武田勝頼軍が織田信長・徳川家康連合軍に敗れました。山県昌景、馬場...
野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄。その終焉地の謎に迫る! 遠江の三方原の戦いに勝利した後、野田城を攻城中に重態に陥った武田信玄が、伊那街道から三州街道を経て本国の甲斐に引き揚げる道すがら...
武田勝頼が自刃 今日は何の日 天正10年3月11日 天正10年3月11日(1582年4月3日)、武田四郎勝頼が自刃しました。戦国最強を謳われた武田氏の滅亡の時です。 諏訪四郎勝頼の誕生 ...
今日は何の日 慶長16年6月4日 九度山で真田昌幸が没 慶長16年6月4日(1611年7月13日)、真田昌幸が亡くなりました。徳川家康が畏怖した戦上手で、真田信幸、信繁兄弟の父親としても知られます。 昌幸の...
今日は何の日 5月21日 長篠の合戦で織田・徳川連合軍が武田勝頼軍を破る 天正3年5月21日(1575年6月29日)、長篠合戦が起こりました。戦国最強と呼ばれた武田軍の精鋭を、織田・徳川連合軍が破ったことで知ら...
勝頼に従い、武田の意地を見せた男たち 天正10年(1582)2月、織田軍が武田領に侵攻。信長による朝廷工作で武田勝頼は「朝敵」とされ、さらに凶兆とされる浅間山の噴火もあり、武田家臣...
浅間山噴火と武田家滅亡 天正10年(1582)3月、真田信繁が16歳の折、武田家は滅亡の時を迎えました。すでに2月1日に木曾の木曾義昌、同14日に信濃松尾の小笠原信嶺、同25日に駿河江尻の...
真田氏の居城・上田城 2016年の大河ドラマ「真田丸」。主人公の真田信繁(幸村)は戦国随一の人気を誇る武将だが、彼の祖父と父もまた、上杉謙信や武田信玄が一目置く武将であった。真田幸隆と、昌幸。この父子抜きに...
更新:11月21日 00:05