2016年01月13日 公開
2023年03月09日 更新
天正10年(1582)3月、真田信繁が16歳の折、武田家は滅亡の時を迎えました。すでに2月1日に木曾の木曾義昌、同14日に信濃松尾の小笠原信嶺、同25日に駿河江尻の穴山梅雪ら、重臣らが次々と裏切る一方、織田信長、徳川家康、北条氏政の軍勢が武田領に侵攻を開始。
この事態に真田昌幸は、主君・武田勝頼に本拠の新府城を離れることを献策します。
「甲斐本国も危うくなった今、それがしの領地、上野吾妻の岩櫃城にお移りくださいませ。上野沼田城にはわが弟信尹(加津野昌春)、信州戸石城にはわが嫡男信幸、叔父の矢沢頼綱が入って東西を固め、岩櫃城にはそれがしがお供いたします。3千、5千の軍兵があれば、3年や5年は持ちこたえられます」
新府城は天正9年(1581)に武田勝頼が真田昌幸に築城を命じたとされますが、異説もあるようです。甲斐の七里岩台地上(韮崎市)に築かれた巨大な城でしたが、いかんせん築き始めてから間がなく、完成には至っていませんでした。
一方の岩櫃城は、吾妻の難攻不落の山城。沼田城を経由して越後の上杉氏(当時、武田とは同盟関係)と連絡を取り合うことも可能で、上杉勢の援軍も期待でき、いざとなれば上杉領へ脱出することもできました。昌幸はここに勝頼を迎え、戦局の潮目が変わるのを待つことを勧めたのです。
昌幸の進言を勝頼は受け入れました。昌幸は2月28日、勝頼を迎える準備をするために、岩櫃城へ先行して向かいます。
ところが勝頼はその後、岩櫃城へ赴くことを中止し、甲斐国内の小山田信茂の岩殿城に向かうことへ方針転換しました。『甲陽軍鑑』によると、勝頼側近の長坂釣閑が、「外様の真田は信用ならない。むしろ甲斐を離れず、重臣・小山田信茂の岩殿に拠るべき」と勧めたといいます。
しかし、勝頼の心を変えたのは、真田への不信ではなく、気象条件であったかもしれません。実は2月24日に、上信国境の浅間山が噴火したのです。古来、浅間山噴火は甲斐・信濃の人々にとって凶兆とされ、浅間山に近い岩櫃に向かうことを勝頼がためらった可能性はありそうです。
実際に浅間山噴火は、滅亡へと向かう武田にとって凶事以外の何ものでもなく、それが織田信長の工作による武田勝頼の「朝敵」指名と、織田軍の武田領侵攻と同じタイミングであったため、武田家中も領民も激しく動揺しました。勝頼の運が尽きたとしかいいようがありません。
3月3日、新府城を焼いて、岩殿城へと向かう勝頼一行。ところが肝心の小山田信茂が織田方に寝返り、岩殿城に通じる道を封鎖した上、鉄砲を撃ちかけました。その時、勝頼に従う人数は40人ほどにまで減っていたといいます。
結局、勝頼は、かつて室町時代に武田家13代の武田信満が自害した天目山に向かい、織田軍の追っ手にかかって、3月11日、天目山ふもとの田野で全滅します。ここに武田家は滅びました。
一方、新府城にいた真田信繁ら真田昌幸の家族はどうなったのか。武田勝頼は新府城を去る前、人質であった彼らを解放し、信繁の兄・信幸に馬と太刀を与え、「昌幸の忠誠は死んでも忘れぬ」と語ったといいます。
彼らは勝頼が去った直後に新府城を発って、上州岩櫃城を目指しました。新府城から岩櫃城へは、徒歩で3日の行程と大河ドラマ内で紹介されました。一行は200人前後であったようですが、各地で一揆が起こっているため、その人数でも安全とはいえません。
そして途中、関東各地から集まって千人近くにもなった野盗の大集団と遭遇してしまいます。
この時、一行の指揮を執ったのは、信繁の兄・信幸でした。折よく、父・昌幸が迎えに派遣した70人が合流していため、信幸は一行を3隊に分け、一隊を野盗集団の背後に回し、織田軍を装って一斉に旗を掲げ、鬨の声を挙げます。
野盗たちはこれに驚き、真田勢の抵抗の前にろくに応戦もせず、逃げ去りました。おそらく、信繁も奮闘したことでしょう。
それにしても、この時、17歳の信幸が指揮して野盗の大集団を撃退したことは、信幸の将器を窺わせます。「真田丸」では、当然ながら主人公である信繁の軍才が強調されますが、信幸の器量もまた、並大抵のものではありませんでした。
その後、昌幸が派遣した鎌原重春ら600人が一行を迎え、真田の家族は無事に7日、岩櫃城にたどりつくのです。
しかし、武田家という強大な後ろ盾が滅んでしまった真田家にとって、信州小県から上州吾妻、沼田に至る領土をいかに守っていくのか。本当の戦いがここから始まることになります(辰)
更新:11月21日 00:05