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小泉八雲と、八雲の「日本人中第一の友」西田千太郎の交流

2025年12月02日 公開

鷹橋忍(作家)

ラフカディオ・ハーン
Wikimedia Commons/Lafcadio Hearn in 1889

朝ドラ『ばけばけ』で、吉沢亮さんの好演で注目されている錦織友一。
そのモデルは西田千太郎とされるが、史実における小泉八雲と西田の関係はどのようなものだったのか。『小泉セツと夫・八雲』の著書がある鷹橋忍氏がひもとく。

 

「大磐石」と称される人物との出会い

東京で島根県知事と、島根県尋常中学校および、師範学校の英語教師となる契約を結んだラフカディオ・ハーンが、赴任先である島根県松江に到着したのは、明治23年(1890)8月30日のことである。

その日、ハーンは松江を流れる大橋川の船着場に対岸に位置する富田旅館で、県庁職員の出迎えを受けた。

この時ハーンは、最も信頼する友人となる人物と出会っている。島根県尋常中学校教頭の西田千太郎である。

当時、ハーンは40歳、西田千太郎は27歳だった。

西田千太郎は文久2年(1862)9月18日、島根県松江市雑賀町で、松江藩足軽・西田平兵衛の長男として生まれた(池野誠『小泉八雲と松江 異色の文人に関する一論考』)。

西田千太郎は学生時代、成績が際立って優秀なうえ雄弁で、将来を嘱望されていた。

明治9年(1876)9月に入学した教育伝習校変則中学科(明治10年に松江中学として独立。明治19年に島根県尋常中学校に改称)では、ずっと首席の座にあり、「大盤石」と称されたという(池野誠『小泉八雲と松江 異色の文人に関する一論考』)。

明治13年(1880)には、同校(松江中学)の授業助手に任命されている。

明治17年(1884)には安食クラという女性と結婚するも、東京での遊学を決意する。翌明治18年(1885)8月には退職し、上京した。

東京ではアメリカ人のガーディナー、ストーラル、イギリス人モリノーらから英語を、地学と哲学は独習し、有賀長雄に心理学、イギリス人のデニングに論理学を学んだ。

明治19年(1886)5月には、心理学、論理学、経済学、教育学の文部省中等学校教員の検定試験に合格。免状を受けている。

正教諭となった西田千太郎は、兵庫県立姫路中学校、香川県の済々学館などで奉職した。

その後、強く請われて、明治21年(1888)8月31日付で、母校・島根県尋常中学校の教諭として帰任。堪能である英語の他、歴史、地文、生理、植物、経済など、ほぼ全教科を教えている。

博識で、誠実な人柄の西田千太郎は、校長を上回るほどの声望があったといわれる。

だが、大学を出ていないため、校長の座を手にすることはなかったという(国際文化編『国際関係研究10(1)』所収 萩原順子「小泉八雲と西田千太郎――「神々の国」との邂逅――」)。

ハーンと出会った時も、西田千太郎は「教頭」だった。

ハーンの随筆「英語教師の日記から」(『小泉八雲作品集』所収)によれば、ハーンが学校に初出勤した際に、校内を案内し、同僚教員と引き合わせたのは、西田千太郎だった。

さらに西田千太郎は授業時間や教材などについても説明し、必要な物も机の上に揃えておいてくれた。

ハーンは、「西田氏は親切この上なく、何事にも至れり尽せり」だったと称している。それでも、西田千太郎は顔を合わせると、「不届きで」などと謝罪したという。

ハーンと小泉セツの長男・小泉一雄の随筆『父小泉八雲』によれば、西田千太郎は日常の様々な事柄について優れた通訳を行なっただけでなく、日本の人情や風俗なども、ハーンが心の奥底から納得できるように、懇切丁寧な説明をした。

小泉一雄は、西田千太郎は父・ハーンが「最も信頼した、日本人中第一の友」だったと記している。

ハーンは西田千太郎を、「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆言ってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」と称し(小泉節子『思ひ出の記』)、心から信頼した。

二人は、お互いの家庭を頻繁に訪問し合ったり、出雲大社を参拝するなど、ともに松江内外の各地を訪れたりと、公私にわたって深く親交を重ねている。

公私にわたってハーンの日本での生活を支えた西田千太郎だが、彼の体調は思わしくなかった。もともと体が丈夫でないうえに、若くして結核を患っていたのだ。

ハーンの着任第1回となる講演では、喀血を止血剤や注射で防ぎながら、通訳を務めたという(梶谷泰之『へるん先生生活記』)。

ハーンと西田千太郎との親交は、ハーンとその妻・小泉セツが、松江から熊本に、熊本から神戸、東京へと居を移しても続いた。

しかし、西田千太郎は明治30年(1897)3月15日、両親、妻、4人の子どもを残して、病のため、亡くなっている。34歳の若さであった。

だが、西田千太郎の死後も、ハーンは彼を忘れることはなかった。

小泉節子『思ひ出の記』によれば、ハーンはセツに、「今日途中で、西田さんの後姿見ました。私の車急がせました。あの人、西田さんそっくりでした」と話したことがあった。

また、ハーンは明治37年(1904)に早稲田大学講師として招聘されているが、その時、学監の高田早苗が西田千太郎にどこか感じが似ていると、たいそう喜んだという。

ドラマ『ばけばけ』のレフカダ・ヘブンと錦織友一のように、ハーンと西田千太郎の間にも、出会った当初は戸惑いや行き違いが生じたかもしれないが、2人は間違いなく、かけがえのない友となったのだろう。

 

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