
天下人となった豊臣秀吉だが、その偉業を成し遂げた背景には、弟・豊臣秀長の存在が不可欠であった。農民出の秀吉が出世街道を歩み出したエピソードとして知られる「墨俣一夜城」や「稲葉山城攻略」には秀長の活躍があったという。秀吉はいかにして道を切り拓いたのか。そして秀長はどのように兄を支えたのか。親しみやすい文体で定評のある伝記作家が解説する。
※本稿は、真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部抜粋・編集したものです。
「乱世にあって名を後世に伝えようと思っても、頼みとする者がいなくては心細い。どうか鋤を捨てて、わしに力を貸してほしい!」
弟の豊臣秀長を説得しようと、秀吉はそんな決めセリフを言ったらしい。
このエピソードが載る『武功夜話』は誤りが多い史料なので、鵜呑みにすることはできないが、秀長が兄にいざなわれて、一大決心をしたことは確かだろう。
秀長は農民から侍となり、兄のそばで生きる道を選ぶこととなった。信長に仕える兄のもとで、秀長はどんなふうに武士としての下積み経験を積んだのか。それもよくわかっていないが、先の『武功夜話』には、秀長に関するいくつかの記述がある。創作の可能性も高いが、秀長が後世でどう見られていたか、という点では参考になるかもしれない。
『武功夜話』は愛知県の旧家・吉田家に伝わる家伝文書群『前野家文書』の一つ。もっともよく知られているのが「墨俣一夜城」の逸話だろう。
永禄9(1566)年、信長は美濃を攻略するために、敵地の墨俣に城を築くことを家臣たちに命じたが、美濃を支配する斎藤方の武士に妨害されて、老臣2人が失敗。それを見た秀吉が「おそれながら」と名乗り出て、墨俣城の築城を引き受けることとなった。
秀吉は、斎藤方の攻撃から防御するチームと、築城するチームに分け、効率的な作業ルールを決めた。
それを守らせたところ、たった一夜で城を築いてしまった...として語り草になっている。
この逸話は『甫庵太閤記』にて「信長の命で秀吉が築城した」という記述があり、その城が『絵本太閤記』では「黒俣城」として紹介されている。
さらに『武功夜話』では、秀吉がこのプロジェクトに成功した背景に、弟・秀長の活躍があったとしている。
墨俣に城を築くには、尾張と美濃の国境を流れる木曽川沿いに勢力を持つ国衆「川並衆」の協力が必要となる。
「なんとか力を貸してもらえないだろうか」
秀吉は事情を説明しながら、川並衆を率いる蜂須賀小六をそんなふうに説得した。
しかし、小六の屋敷に足しげく通っても、色よい返事はもらえなかった。敵地で身をさらして城を建てることのリスクを考えれば、やすやすと引き受けられないのは当然のことだ。
なかなか首を縦に振らない小六に、口八丁の秀吉も万策が尽きてしまう。重苦しい雰囲気が流れるなかで、口を開いたのが、秀長だった。
「私ごとき者が申すのもおこがましい次第ですが、この度、兄上が墨俣での築城を引き受けた以上、もちろん、成功しなかったときは一命もないものと覚悟の上です」
このプロジェクトに命運がかかっていることを強調しながら、秀長は斎藤氏の居城である稲葉山城を何度か攻撃してきたことについて、小六らの尽力があったからこそとして、こう感謝を述べている。
「先年、稲葉山攻めの折りには舎兄のみがご褒賞をいただき面目をほどこしたが、我ら兄弟がさしたる働きをした訳ではなく、これらは諸兄の活躍のお陰であった。この度の大役を成功させるために、ぜひとも御両所の御助けをお願い申す」
そんな気持ちが込もった言葉に、小六の心は動かされたようだ。短くこう答えたという。
「墨俣のことお引き受け申す」
小六の協力を取り付けたことで、秀吉たちは短期間に墨俣城を築くことに成功。これ以後、小六は秀吉家臣団のなかで活躍する。
どこまでが本当にあったことかどうかはわからない。そもそも、黒俣城の存在が疑問視されている。確かな史料に全く取り上げられていないからだ。仮に存在していたとしても、城というよりも、せいぜい砦くらいものだったのではないか。そんな見解もあるようだ。
そして「墨俣城伝説」の翌年、永禄10(1567)年8月に、秀長が武士として最初の武功を上げた、といわれている。
なんでも稲葉山城を攻める際に、まずは秀吉が二の丸へと攻め込んで米蔵に放火すると、それを合図に表で待っていた秀長が一気に城へと攻め上がって攻略したという。事実ならば、秀長は28歳で武功を立てたことになる。
だが、逸話のもととなっている『絵本太閤記』は、江戸時代に書かれたもので、信憑性が低い。「墨俣城伝説」と同様に、秀吉と秀長の名コンビぶりが、いかに後世で語り継がれたかということを示しているに過ぎない。
それでも、のちに秀長が秀吉の名補佐役として常によい働きをしたことを思えば、若き下積み時代に、その萌芽が見られたとしても不思議ではない。
織田信長は永禄10(1567)年、「稲葉山城の戦い」で斎藤龍興を降伏させると、美濃を支配下に置く。
秀吉が一夜で築いたという墨俣城がその拠点となった...というのは、本当のことかわからないが、秀吉が美濃攻略に貢献したことは確かだ。
斎藤龍興が内紛の対応に追われている隙をついて、秀吉は信長に命じられ、斎藤方の武将である美濃の坪内利定に近づき、味方に引き入れた。続いて同じく美濃の大沢基康を懐柔することにも成功。信長から働きぶりが認められることとなった。
坪内利定らに知行充行状が出されたときに、その添状には「木下藤吉郎秀吉」の名が記されている。このときには、領地を保証できるだけの立場に、すでになっていたということだ。
勢いに乗る信長は翌年、京(都)に上洛して室町幕府の後見人の地位を確立。2年後の永禄13(1570)年には、大軍を率いて、朝倉義景率いる朝倉家に攻め入っている。上洛を促しても一向に来ない義景に、信長が業を煮やしたのだ。
このときも、秀吉は信長の期待にしっかりと応えた。越前の敦賀で手筒山城を落とすと、続いて金ヶ崎城へ。城主の朝倉景恒を相手に、得意の交渉術で開城を促して成功している。着実に結果を残す秀吉。その活躍ぶりを間近で見ていた秀長は、さぞ頼もしく思ったことだろう。
だが、ここで思わぬ展開が待っていた。近江の浅井長政が、まさかの謀反を起こしたのである。
信長は妹のお市を長政に嫁がせていたため、裏切りが常の戦国時代とはいえ、予想できなかったらしい。浅井の裏切りによって、織田軍は退路を断たれてしまい、一転して窮地に陥った。
どうにか切り抜けなければと、京に逃げ帰ることになった信長。信長を無事に退却させるためには、最後尾で戦いながら逃げる「殿(しんがり)」が必要だ。
一体、誰が「殿」を務めるのか――。最も危険な任務であることは言うまでもないが、秀吉は志願してその役目を引き受けたという。
秀吉は最後尾で朝倉勢の攻撃をしのぎながら、無事に織田軍を退却させた。これは「藤吉郎の金ヶ崎退き」という、秀吉の功績として語り草になっている。そこでは、兄と命運をともにすると決めた弟の秀長もまた、死力を尽くしたと考えるのが自然だろう。
殿軍の奮戦によって危機から脱した信長は、秀吉に褒美として黄金30枚を与えている。その後、岐阜にいったん戻って兵を整えたのち、浅井氏に報復するため、大軍を率いて浅井長政の居城・小谷城近くへと攻め込んだ。
徳川家康の軍と合流した信長は、浅井・朝倉軍を撃破。小谷城まで一気に落とすのは難しいと判断すると、小谷城の南方拠点である横山城を奪い、そこに秀吉を置いて、にらみを利かせた。
そして天正元(1573)年の織田軍による小谷城攻めの際、秀吉は弟の秀長を一番手とする8000の兵を率いて城に攻め上がり、長政を自害に追い込んだといわれている。
浅井長政らが滅亡すると、秀吉はいったん小谷城に入ったのち、交通が便利な琵琶湖湖岸の「今浜」を「長浜」と改名して築城。秀吉はこの長浜城で「一国一城の主」となった。
信長の期待に秀吉が応えたように、秀長も兄の秀吉の期待に十分に応えたからだろう。このときに、長浜城に新たな拠点を置く秀吉から秀長に、伊香郡に一定の所領が与えられた、と見られている。金ヶ崎の戦いで信長を生還させ、自分たちも生きて逃げ切ったことで、秀吉と秀長の将来は大きく開けたといえそうだ。
『武功夜話』はその真実性はともかく、後世が歴史人物をどんなふうにみていたかがわかる...そのように書いたが、戦場での秀長については、こんな評価をしている。
「小一郎様(秀長のこと)は大敵と遭遇しても、顔色ひとつ変えることのない胆力の御仁であった」
そんな胆力が「藤吉郎の金ヶ崎退き」でも発揮されたのは想像に難くない。
更新:01月09日 00:05