2020年08月03日 公開
2023年07月31日 更新
戦国武将イメージの「通説」は江戸時代以降に作られたものが多い。信長、秀吉、家康の「三英傑」もまた然り、である。ここでは、秀吉自身が語ったという「天下をとれた理由」「天下人の3要素」について紹介する。
※本稿は、鈴木眞哉著『「まさか!」の戦国武将 人気・不人気の意外な真相』(PHP文庫)より、その一部を抜粋編集したものです。
天下を取ったような人たちは、後世まず例外なく高い評価を与えられている。
彼らが天下を取れたのは、優れた人、立派な人だったからだと考えられる傾向があるからである。逆に言えば、天下を取るほどの人は、有能で正しい人間でなければならない。御用学者などがそう主張しているのは当然だが、講釈師などもそういう方向で説明していた。
近現代の学者は、それほど単純には言わずに、あれこれ理屈を並べ立てるが、結論的には講釈師とあまり変わらない。しかしながら、徳富蘇峰さん流に言えば、成功したか失敗したかを知ったうえで人を観察すれば、成功者は偉く見えるし、失敗者はつまらなく見えるのは当たり前だから、幸運とか不運とかいった風袋を取り除けて観察しなければ公平な評価にはならない。
しかし、そんな学者には、めったにお目にかからない。だれそれが天下人となれたのは、まったくの偶然だよとか、運がよかっただけだよとかいう説明は、まず聞いたことがない。
他人の勝手な勘違いはともかくとして、天下人本人は、自分たちの成功した理由をどのように考えていたのだろうか。信長には、そうした材料がないが、秀吉と家康には、その種の逸話が多少伝わっている。
いつごろのことかわからないが、御伽の者が秀吉に向かって、いま天下を取れそうな大名はおりましょうかと尋ねたことがあるという。秀吉は、そういう者は見当たらないなと答えた。天下を取るには、大気と勇気と知恵の三要素をバランスよくもちあわせていなければならないが、それに該当しそうな者はいないというのが、その理由である。
それだけでは素っ気ないと思ったのか、おもしろいことに、陪臣(大名の家臣)のなかにも、二要素まではもちあわせている者がいるとつけくわえた。上杉家の直江兼続(1560〜1619)、毛利家の小早川隆景(1533〜97)、龍造寺家の鍋島直茂(1538〜1618)の三人がそうであるという。
直江兼続は上杉謙信・景勝二代に仕えた人間で、陪臣とはいえ、一時、出羽(山形県)米沢30万石を領していた。いろいろ逸話の多い男で、巷説では、関ケ原の戦いという一大ドラマは、この兼続と石田三成の〈合作〉だと言われている。
小早川隆景は、毛利元就の三男だが、安芸(広島県)の小早川家を継ぐかたちをとった。毛利家の当主となった甥の輝元を援けて活躍したが、本人も最終的には筑前・筑後(福岡県)の両国と肥前(佐賀県・長崎県)の一郡半を領する大領主となった。輝元と並んで豊臣家の大老といった地位にも就いているから、これも単なる陪臣というわけではない。
鍋島直茂は、龍造寺の一族でもあるが、早くから秀吉に着目して接触した。秀吉の在世中は、龍造寺家が肥前の七郡を与えられ、直茂は肥前の東部で知行を受けるかたちだったが、すでに主家の実権は掌握していた。関ケ原ののちには名実ともに肥前の大半を支配した。そうこうやっていて、なんとはないかたちで主家を乗っ取ってしまったのである。
秀吉は、彼ら三人を評して、直江は大気と勇気はあるが、知恵が足りないところがある、小早川は大気と知恵はあるが、勇気が欠けている、鍋島は勇気と知恵はあるが、大気がないと言ったという。
秀吉の言う大気とは、広く情勢を見渡して大戦略を立てられるような能力のことであろう。勇気というのも、果敢に敵に立ち向かってチャンバラをやるようなことを言っているのではあるまい。秀吉自身がそういう類の個人的な武勇など軽蔑していたからである。おそらく、ここ一番というときの決断力のようなものを指しているのだろう。知恵というのも、単なる才覚ではなく、臨機応変に状況に対応できる能力といったものだろう。
この話は、幕末の館林藩士で尊王論者だった岡谷繁実の編んだ『名将言行録』で読んだが、鍋島家の家臣がつくった『葉隠』にも出てくるところをみると、もとは鍋島家で伝えていたものかもしれない。ほんとうに秀吉がそう言ったかどうかは、保証のかぎりでないが、内容的には、秀吉が言ったとしてもおかしくはないし、言われた三人の事績にも符合するところがある。秀吉自身は自分は三要素をバランスよくもっていたから成功したと考えていたのだろう。
江戸時代の学者には、秀吉の天下取りなんて、運がよかっただけのことではないかと言った人が何人もいるが、当の本人は、そうは思っていなかっただろう。
この話のなかの秀吉も、運だのツキだのといったことには、これっぽっちもふれず、もっぱら個人的な資質ばかりをあげつらっている。といっても、秀吉がそんな話をしたかどうかの確証のないことは、いま言ったとおりだが、現実の秀吉の本音も、そういうものだったにちがいない。
自信家の秀吉は、自分ほど人気のある主人はいないと考えていたらしい。秀吉が小人数で出歩くので、危ないではありませんかと、五奉行の一人の前田玄以が諫めたところ、天下に俺に勝る主人なんかいないから、謀反する者なんていやしないさと答えたという。これは儒者で医者だった同時代人の江村専斎が語り残した「老人雑話」にある話だが、別の箇所には、常日ごろ、そんなことを言っていたとある。たまたま玄以に対してだけ、そう言ったわけではないのである。