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「信長様!」「秀吉殿!」…戦国武将が実名で呼びあうことはない?

2019年10月18日 公開
2023年07月31日 更新

鈴木眞哉(歴史研究家)

戦国武将
 

戦国時代の大誤解!

歴史もののテレビドラマが果たしている役割は大きい。ことに大河ドラマには教科書にはない物語性があり、歴史知識を深めることができる。

しかし、ドラマチックな合戦や名場面にはフィクションが多く含まれており、必ずしもすべて真実の歴史を伝えているとは言えない。

戦国時代もまた然り。やはり一度は通説を疑ってみることも重要なのではないだろうか。

※本書は、鈴木眞哉著『戦国時代の大誤解』より、一部を抜粋編集したものです。
 

めったに使われなかった実名

戦国時代の大誤解大河ドラマを見ていて気になることの一つに、登場人物がやたらに相手を実名(じつみょう)で呼ぶことがある。実名というのは、織田上総介信長の「信長」、木下藤吉郎秀吉の「秀吉」のことである。台詞のなかに「信長様」だの「秀吉殿」がしきりに出てくるが、現実の会話では、絶対にありえなかったことである。

なぜそうかといえば、他人、ことに目上の人間を実名で呼ぶというのは、このうえもなく失礼なこととされていたからである。そうなった理由はいろいろ考えられるが、ここでは立ち入らない。こうした風習は、お隣の中国でも古くから存在していた。

とにかくそういうことだから、「様」をつけようが「公」をつけようが許されるものではない。もし、家臣などがそんな真似をしたら、軽くても閉門か追放くらいは免れなかったと思うが、そんなことをするヤツは、そもそもいなかっただろう。

それでは、目上はいけないが目下ならよいかということになるが、それも憚られたようだ。源頼朝の息子の頼家は、よくいえば闊達、悪くいえば無思慮な人間だった。それで一族縁者まで含めて、しばしば実名で呼んだらしく、恨みを抱く者が多いというので母親の政子にきびしくたしなめられている。目上からやられるのであっても、実名を呼ばれるほうは、きわめて不愉快だったのである。

ついでにいうと、天皇でも臣下の実名を呼ぶことはまずなかったという。明治天皇は、土方久元であれば「土方」とは呼ぶが、決して「久元」と呼ぶことはなかったというのが、本人の談である。同じことは公家の東久世通禧も語り残している。明治天皇の父の孝明天皇にも同様の話があるから、よほど古い時代は知らず、天皇といえども他人を実名で呼ぶことは避けたのである。

それでは現実には、どう呼んでいたかというと、そのために通称がある。木下藤吉郎秀吉なら「藤吉郎」がそれである。実名は通常、成長後でなければつけないし、身分の低い者はそもそももたないが、通称はだれにもあるから、その意味でも便利である。子どもには幼名がつけられることもあるが、これも通称の一種である。秀吉の幼名が「日吉丸」だったというのはマユツバだが、信長なら「吉法師」である。

余談だが、大河ドラマ《太平記》ではおかしな場面があった。幼い足利尊氏・直義兄弟に向かって父親が「又太郎、直義」と呼びかけるのだ。尊氏は通称、又太郎だからそれでよい。だが、兄を通称で呼んで弟を実名で呼ぶことはないし、そもそもまだ直義という名もついていなかっただろう。直義の通称は不明なので、苦肉の策だったらしいが、それなら固有名詞など出さずに「お前たち」とでもやっておけばよかったのだ。

成長後には実名のほか、官名がつく場合がある。そうなると通称ではなく、こちらで呼ばないと、また別の意味で失礼である。秀吉の例でいうと、筑前守から始まって参議、権大納言、内大臣、太政大臣、関白と成り上がり、最後は関白を引退して太閤となった。そのため当時はもちろん後世まで、「太閤」と呼ばれている。もっとも死後は本人の希望で神様となって「豊国大明神」となったから、正確にはそう呼ぶべきなのだろう。

通称も変わることがあるが、官名も変わりやすいから、いちいち間違えずに追っかけるのはたいへんである。また、同じ通称や官名をもった人間が複数いることも珍しくないから、その仕分けもひと苦労である。そういったことは当時の文献を見ていても、よくわかる。

したがって、テレビドラマでそれをリアルにやろうとしたら、面倒くさくてかなわない。そもそも視聴者が混乱するだろう。そのためには「信長様」「秀吉殿」もやむをえないのだが、事実はそうではなかったということは、理解しておいていただきたい。

明治天皇の逸話からもおわかりのように、実名を呼ぶのを避ける風習は、江戸時代以降もずっと続いていた。幕末、紀州の藩士だった堀内信という人の言うところによると、官つまり幕府や藩から藩士を呼ぶ場合であっても、実名が使われることはなかったという。また本人のほうも、一定の公文書とか起請文を書くような場合を除けば、実名を用いる機会などめったになかったということである。

それでも自分の実名を忘れるヤツはいなかっただろうが、こんな具合だから、他人の実名など親しい人間でも忘れてしまうようなことが起きた。明治5年(1872)、戸籍というものをつくったとき、西郷隆盛はたまたま不在だったので、友人が代わって手続きをとった。それはよいが、間違えて西郷の父親の名を届けてしまった。西郷のほんとうの名は「隆永」だったというのだが、親しい友人ですら憶えていなかったのである。

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