武田信玄が侵攻してきた三方原の戦いで、いったいなぜ徳川家康は負けることを承知で浜松城から出撃したのだろうか―。
巷説では、同盟者の信長に対する義理だったとか、遠江の武将たちの離反を防ぐためだった、あるいは武士の意地だったなどといわれる。
だが私は、もし信玄がまもなく病没しなければ、この戦い如何によっては徳川家自体が消滅した可能性があると考えている。なぜなら三河武士団は、家康に忠節を尽くした武士の鑑であるかのように言い伝えられているが、それは大きなまちがいだ。家康の譜代衆は、じつはとんでもない不良家臣団だったのである。
岡崎城主で家康の祖父・松平清康は、もともと三河の土豪にすぎなかったが、類稀なる戦ぶりで、20歳の若さで三河一国を平定した。
だが、それから5年後、誤解によって家臣に謀殺され、嫡男の広忠はわずか10歳だったので、たちまちにして松平(のちの徳川)氏は分裂、実権は親族の松平信定らに奪われた。広忠は、流浪のすえ駿河の今川義元の後援を得て三河の領国を取りもどすが、この折り、嫡男・家康を人質に入れ、以後、今川の属将となり、24歳の若さで死没した。ために三河は今川氏の配下に組み込まれ、元服したあとも家康は岡崎に帰ることを許されなかった。
永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の戦いで討たれたことで、ようやく家康は三河にもどり、今川氏と断って織田信長と結んだ。とはいえ三河の地は、家康の祖父・清康が数年間だけ統一支配を行ったにすぎず、三河武士は家康に心服してはいなかった。
その証拠に、永禄6年(1563)に三河で一向一揆が勃発したさい、多くの譜代家臣が一揆方に加わり、家康に敵対しているのだ。このとき家康は、鎧に銃弾を2発撃ち込まれるという危機的な状況に陥っている。
じつは三方原合戦でも、敗戦が確実になると、徳川四天王と呼ばれた榊原康政ほか多くの譜代家臣は浜松城へもどらず、そのまま他所へ遁走している。
また、何を思ったのか、家康より先に浜松へ逃げ帰った小倉忠蔵は、
「殿は討ち死にした」
と城中に触れまわり、味方を絶望のどん底に陥れた。
大久保忠世なども家康が脱糞してもどってくると、主君を労うどころか、
「殿が糞を垂れてもどってきたぞ」
と大声でゲラゲラと笑う始末だった。
つまり、こうした素行のよくない連中の前で、戦わずして尻尾を巻いて城中で震えていたら、家康はきっと譜代にさえ見限られたことだろう。すなわち、戦国大名の存亡をかけて、家康には信玄と戦うしか術はなかったのである。
しかしながら、家康とて馬鹿ではない。最初から大軍と激突して自滅するつもりはなかったと思われる。武田軍が坂を下りきったところで威力偵察を仕掛け、敵が大々的に反攻してきたら、すばやく浜松へ撤収しようと考えていたのではなかろうか。あくまで、同盟者の信長に義理が立ち、譜代に己の武勇を誇示できれば、それでよかったからである。
にもかかわらず、武田の大軍と激突してしまったのは、家康の制止を無視して敵に突入していったダメな譜代衆のせいだろう。
以後も家康は、家臣の素行に悩まされつづけることになる。
天正7年(1579)、家康は嫡男の信康を自害させ、正妻の築山殿を殺害した。
これは、2人が武田勝頼に内通したと信じた信長の意向によるものだったとされる。これより前、信長は徳川家の宿老・酒井忠次を呼んで、内通の事実を問いただした。
このとき忠次は、驚くことに、全面的にこれを肯定したのだ。結果、こうした悲劇が起こったわけである。忠次の言動は、平素、自分を軽んじる信康への意趣返しだったというから呆れてしまう。
天正13年(1585)には、徳川一の重臣である石川数正、刈谷城(現在の愛知県刈谷市)主の水野忠重、松本城(現在の長野県松本市)主の小笠原貞慶が相次いで家康を見限り、敵対していた羽柴秀吉のもとに走っている。
さらにいえば、家康は死没する前年、大坂夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼしたが、この折り、家康は本陣を真田幸村の部隊に何度も攻撃され、窮地に陥った。本来なら命を張って主君を守るべき旗本隊は、さっさと家康を見捨てて逃げ散ってしまい、取り残された家康は絶望のあまり、二度まで自殺を図ろうとした。
このような事実を見れば、なぜ家康が三方原で絶望的な戦いに挑んだかがよくわかるだろう。
※本稿は、河合敦『歴史の勝者にはウラがある』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月21日 00:05