2017年12月22日 公開
2022年08月01日 更新
元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の合戦が起こりました。武田信玄の西上作戦の一環で行なわれた戦いで、徳川家康が大敗したことで知られます。
元亀2年(1572)、駿河一国をほぼ平定し、北条氏康没後の北条氏と甲相同盟を復活した武田信玄は、後顧の憂いを断ったことで、いよいよその目を西に向けました。翌元亀3年(1573)5月には、将軍足利義昭より織田信長追討を命じる御内書が届きます。また浅井長政、朝倉義景、さらには信長に属していた松永久秀までもが上洛を促してきました。それまで信玄は、信長と縁戚関係を結ぶなどして友好関係を保ってきましたが、ここに至り、信長に痛撃を与える決意を固めます。
同年10月3日、信玄は2万の軍勢で甲府を出陣。すでに秋山信友率いる5000を美濃に侵攻させ、信長の叔母が守る岩村城を落とし、美濃方面の織田の動きに備えています。また山県昌景の5000を東三河に派遣し、徳川方の勢力分断を図っていました。信玄の本隊は伊那から青崩峠を越えて一気に南下し、途中、犬居で軍を二手に分け、別働隊を只来へ向かわせると、自らは天方、一宮、飯田と徳川方の城を次々と抜きます。さらに威力偵察を行なう徳川方を、一言坂で叩きました。
10月半ばには信玄は二俣城を囲み、これに山県の別働隊も加わります。二俣城は徳川家康の本拠・浜松城の北方20kmに位置し、家康にすれば至近まで武田軍が迫ってきたことになります。家康は二俣城の後詰を行ないますが、小勢で遠巻きにするのでは効果がなく、城は落ちました。遠江の地侍が次々と武田に寝返る中、信玄は12月21日に二俣城を発し、浜松城へ向かいます。しかし信玄は堅城の浜松城を攻めるつもりはなく、城の北方12kmの三方ヶ原に至ると突如、向きを変えて西へ進み始めました。挑発を仕掛けたのです。
これに対し家康は「我国を踏み切りて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉。兎に角、合戦をせずしてはおくまじ。陣は多勢無勢にはよるべからず。天道次第」(『三河物語』)と声を励まし、重臣らの反対を押し切って出陣しました。とはいえ武田の精鋭2万7000に対し、徳川方は織田からの援軍3000を含めて1万1000。どう見ても分の悪いものでした。
三方ヶ原古戦場跡碑(静岡県浜松市)
家康は武田軍が三方ヶ原の台地を通過し、坂を下り始めたところを背後から衝くつもりであったといわれます。 しかし、名将信玄にすれば、その程度のことは承知の上であったでしょう。地形が下降する直前にピタリと進軍をやめ、全軍が振り返ると、見事な魚麟の陣形となりました。追撃態勢になっていた徳川方はこの変化にたじろぎ、急ぎ鶴翼の陣形をとって対峙します。すると武田軍は、徳川勢に雨あられと石礫を投げ始めました。またも挑発です。すると大久保忠世、柴田康忠らの諸将は、家康の命令を待たずに次々と武田軍に襲い掛かって行ったといいます。
かくして粉雪の舞う中、両軍の全面衝突が始まりました。 最初のうちこそ徳川方は勢いがありましたが、次第に数の差で武田軍に押され始め、ついに潰走するに至ります。武田軍の馬場信春隊が逃走する家康を追いますが、家康側近の夏目吉信が身代わりとなって立ちはだかり、奮戦の末に討死して、家康の脱出を助けました。
この戦いで双方の戦死者は武田軍400、徳川軍1000余りであったといわれ、徳川方の惨敗でした。武田軍の追撃は凄まじく、家康は馬上で恐怖の余り「せつな糞」をもらしたともいわれます。しかし武田軍は浜松城を攻めることはせず、さらに西に向かいました。
それにしてもなぜ、家康は勝ち目のない勝負を挑んだのでしょうか。よくいわれるのは、同盟する信長への義理立てであった、遠江の武将の離反を防ぐためであった、武士としての意地であった、などでしょうか。いずれの要素も含んでいたと思います。面白い見方としては、出撃しなければ、癖の強い家臣たちに見限られていただろうというものがあります。徳川に仕える三河武士といえば、家康の身代わりとなった夏目吉信のように忠義者のイメージが強いでしょう。
しかし、必ずしもそれがすべてではありません。 たとえば三方ヶ原においても、大久保忠世らは、家康の命令を待たずに勝手に戦を始めています。家康にすれば、家臣らが始めてしまった戦いに巻き込まれた感覚もあったかもしれません。しかも大久保忠世はそれを詫びるどころか、帰城した家康を「殿が糞を垂れて戻ってきたぞ」と大声でゲラゲラ笑う始末。また家康より先に浜松城に戻った小栗忠蔵は、何を思ったか「殿が討死なされたぞ」と触れ回り(『三河物語』)、城内の味方を絶望させています。どうもこの辺、家臣らを家康が十分にコントロールできていない印象があります。
6年後には家康の息子・信康切腹事件が起きます。当時の徳川家臣団は家康に絶対服従というよりも、家康を頼むに足る頭という目で見ており、頼みにならなかったり、自分に都合が悪くなれば、極端な話、頭をすげ替えることも辞さないような雰囲気が感じられます。つまり三方ヶ原で家康が勝ち目のない戦いに臨まざるを得なかった理由の一つは、コントロールしにくい部下たちを、「さすがに殿は胆が太いわ」と納得させるためではなかったのか。三方ヶ原の合戦には信玄の巧みな誘き出しとともに、徳川家の内部事情が絡んでいた可能性もあるのかもしれません。
更新:11月21日 00:05