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大久保忠世の逸話~蟹江七本槍、三河者の忠義

2017年09月15日 公開
2018年08月28日 更新

9月15日 This Day in History

小田原城

小田原城
天正18年(1590年)、北条氏の滅亡により徳川家康が関東に移ると、大久保忠世は小田原城に4万5千石を与えられた。
 

今日は何の日 文禄3年9月15日
徳川家重臣・大久保忠世が没

文禄3年9月15日(1594年10月28日)、大久保忠世が没しました。蟹江七本槍の一人で、大久保彦左衛門忠教の兄、大久保忠隣は息子です。

天文元年(1532)、忠世は大久保忠員の嫡男に生まれました。通称は新十郎、七郎左衛門。三河の大久保氏は松平清康時代から松平氏(徳川氏)に仕えたといわれ、忠世も家康の父・松平広忠から仕えています。弘治元年(1555)に広忠が蟹江城を攻略した際には、24歳の忠世も奮戦し、父の忠員や弟の忠佐、伯父の忠俊らとともに、「蟹江七本槍」の一人として名を連ねました。蟹江七本槍の実に4人が大久保一族であり、松平家における大久保一族の存在感を窺い知ることができます。

永禄6年(1563)の三河一向一揆では、家康を助けて活躍。家康の家臣が敵味方に分かれますが、家康が一揆勢の槍を受けそうになった時、一揆方についていた土屋某という家臣がとっさに家康の身代わりとなった話も残ります。一方、大久保忠世は、一揆方についた旧友の本多九郎三郎と槍合わせの末、組討になりました。そして忠世は本多に組み敷かれ、まさに首を掻かれるという時、「おい、九郎三郎。お主は殿に刃向かった末に、友人のわしの首を掻こうとしているが、この首を誰のもとへ持っていくのだ?」と問いかけると、九郎三郎は我に返り、「それもそうだ。七郎左の首をとっても、恩賞は出ぬわい」と言って、お互いに吹き出し、九郎三郎は忠世の体を起こして、笑いながら互いの陣営に戻ったといいます。宗教問題で対立しても主君への忠義は忘れない、三河者らしい逸話でしょう。

また元亀3年(1573)の三方ケ原合戦では、敗走する徳川勢を浜松城近くまで追ってきた武田軍に、忠世は一隊を率いて犀ケ窪のあたりで夜陰にまぎれて銃撃を加え、敵を混乱させたといわれます。さらに天正3年(1575)の長篠合戦でも織田信長に賞賛される活躍を見せ、家康から二俣城を預けられました。

本能寺の変後、家康が甲信に勢力を伸ばすと、忠世は信濃惣奉行に任じられ、小諸城に入ります。天正13年(1585)の第一次上田合戦では、鳥居元忠、平岩親吉らとともに真田昌幸の籠る上田城を攻めて、手痛い敗北を喫しました。また、三河一向一揆以来、諸国を放浪していた本多正信が徳川家に帰参できるよう、尽力もしています。

天正18年(1590)、小田原北条氏が滅び、家康が関東に移封になると、忠世は豊臣秀吉の後押しもあって、小田原城に4万5000石で入りました。その直後のこと。ある日、秀吉は忠世を招いて、尋ねます。

「お前は徳川殿にとって重要な家臣だ。それゆえ徳川殿に勧めて、お前を小田原城主にした。わしもお前の力は高く買っているぞ。ところで、もし豊臣と徳川が争うことになったら、お前はどちらの味方をするのか?」

すると忠世は、「殿下には大変なご恩があると存じます。されどそれがしは徳川の譜代の者でございますので、もしそのようなことになりましたならば、義に従い、徳川のために戦いまする。さすれば我らが勝ちまするので、殿下は関白の地位も、天下を統べるお立場も失いましょう。そして殿下のお命も、それがし次第ということになりまする」。

あまりにしゃあしゃあと忠世に言われて、さすがの秀吉も苦笑するしかなく、「血気盛んなご老体であることよ。まあ、飲め」と酒を注いでやったといいます。

文禄3年(1594)、忠世没。享年63。家督は嫡男の忠隣が継承しました。

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